思考の抽象作用――その苦痛……。斯くて建築群の間には、具象的実在である街路樹が植えられる。これは明らかに和らぎの作用であらう。(〈建築についてのノート〉)

建築というものは抽象的なものだということでしょうね。人類の最初の頃は、自然のなかで寝起きしていたんだと思います。穴倉とか樹の上とか。それがしだいに自然を加工した板とか柱とかで家を作ることになるんでしょう。もうそこには自然そのものから切り離された思考の抽象作用が生じていると考えられます。やがて歴史が進んで自然そのものを加工した建築材から、自然のなかの要素を取り出して、自然そのもののなかにはないコンクリートとか鉄材などの建築材を使って建物を作るようになる。だから建築を見るということは、人間の思考の抽象作用を視る、目には見えないけど心的に視るということになります。

問題はそれが苦痛だと吉本が言っているところですね。一般に思考の抽象作用は苦痛かといえば、苦痛だと感じる人は多くはいない気がします。吉本くらい思考の抽象作用に執着していけば苦痛になるんじゃないでしょうか。吉本の詩集「固有時との対話」は、そうした思考の抽象作用に没入して、その苦痛を無理やりかいくぐった果てにちょっと神経が病んでしまった人の心のなかを表現していると思います。アジアというのは歴史段階としても、地域としても思考の抽象作用が発達しない特色をもっています。だから思考の抽象作用が苦痛だというときには、思考そのものが脳にとって苦痛だという意味だけでなく、思考の抽象作用に価値を見出さないアジアの社会のなかでそれを敢行していくのが苦痛だという意味もあるんだと思います。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。「大洋」という胎児と乳児の心、それは前言語状態という意味でもありますが、言葉がまだない心を「大洋」と吉本は名づけているわけです。この「大洋」とは何かを明瞭にすることが、人間のこころの理解としても、また神経症や精神病の理解としても、また歴史の解釈としても重要な課題であるというのが吉本の問題意識です。

「大洋」を形作る主要な要素を考察して、その主要な要素が胎児から乳児、幼児と成長していく過程での主要な変化、段階の違いということを考えていって、「大洋」が言語を獲得していくまでの過程の重要な問題を浮かび上がらせようというのが、「母型論」の前半部のテーマだと思います。

「大洋」を形作る主要な要素としては、胎児期に形成されて乳児期につながっていく「内コミュニケーション」を吉本はまず提起しています。それから「内コミュニケーション」を形作っているのは、身体の外壁系の感覚と内臓からやってくる心の動きというふたつの経路なのだというのが三木成夫を踏まえた吉本の指摘です。ここまでは解説してきました。

外壁系と内臓系のふたつの経路が形成する「内コミュニケーション」。その「内コミュニケーション」をイメージとしたものが「大洋」のイメージ、つまり大海原、天空と海しかないイメージです。その「大洋」の縦波が外壁系の感覚で、横波が内臓系からやってくる心の動きだとイメージします。

さてそれでそうした「大洋」の心を抱いている赤ちゃん、つまり乳児を取り上げて吉本はさらに主要な要素を提起します。それはフロイトに依拠したことですが、そもそもこの赤ちゃんを生命として突き動かしているものは何か、ということです。ほんとうを言えば胎児についても同じことが問題となるわけですが、ひとつはフロイトが出生以降の追求しかしていないことと、胎児期がまだ不明であるために、乳児期についてのフロイトの考察をまな板にあげて吉本は書いているのだと私は思います。

赤ちゃんを突き動かしているものは「食」と「性」だとフロイトは述べているんだと思います。「食」は赤ちゃんだからおっぱいですね。お腹が減って泣いて、おっぱいをくわえさせてもらってごくごく飲んで、おしっこやうんちを排泄して、すっきりしたらニコニコしてだっこされながら眠っちゃう。それを繰り返しながら成長していくわけです。

ちょっと横道に入りますが、「成長」というものと「発達」というものはともに赤ん坊から子どもへ、少年から青年へという経緯をあらわす概念ですが、「成長」は身体の変化を、「発達」は心的な変化をあらわすんだと思います。「成長」のほうは目に見えるから疑いようのないものです。そもそも体重や身長が増えていきます。それに対して「発達」というのは未完成な精神が完成された精神に進歩していくという概念になります。発達心理学という学問があるように、「発達」するというのは一般的に流通している通念です。吉本はこの「発達」という概念に批判的です。吉本にとっては「初源」あるいは「初期」または「原型」というところに、すべてがすでにあるんだという考えになります。にんげんで言えば乳胎児期という「初源」のなかに、歴史でいえば「アフリカ的段階」という「初源」のなかに、すでにすべての心的な内容は含まれているという考え方です。

ではその初源以降の心や歴史の変化はなんだということになります。それは吉本の考えでは、その初源に含まれていたすべてを包括している心的内容を対象化していく過程だとみなしています。言葉によって、思考によって、思考の抽象化作用によって、外に取り出していく過程です。そしてここが重要なんですが、初源であり原型である完全体を対象化して外に取り出していくこと、それがたぶん「疎外」ということですが、そのことによって失われていくものがあるということです。対象化して外に出されたものは、対象化している対象より小さいということになります。対象化して外に取り出すことは、人間の根源的な衝動であるから人間の歴史は対象化し外に取り出し、そしてなにかを失って小さくなっていく過程だと考えることができます。最初の初期ノートの建築は思考の抽象化作用で、それは苦痛であり、だから街路樹を植えるのだという文章に関連しますが、この考え方は吉本の若いころから抱いている根本的な思想であるといえます。それがわからないと吉本はわからないというとエラそうですが、そうなんですよ。

というわけで吉本は幼児、乳児、児童と成長していく過程を「発達」とはみなさないわけです。これも「母型論」の大事な思想なので、寄り道して書いてみました。

もとに戻って、乳児期の赤ちゃんには「食」と「性」によって突き動かされている。「食」はわかりやすいです。おっぱいも、それを求めてごくごく飲んでいる姿も目に見えるからだと思います。しかし「性」は目にみえない。そして目に見えないものを視ることは難しいことです。それはフロイトによってはじめて発見されたといっていいと思います。

「性」、フロイトは「リビドー」という概念を使いますが、人間を「性」に突き動かされるものとして視る、ということを苦手なことであろうと身につけないとしょうがない。「性」というとエッチとかスケベとかいう話になるのがこの世ですが、エッチやスケベも含みこんだもっとスケールの大きなものとして人間の根源の「性」を視なきゃしょうがないわけです。

そうしたうえで、重要なのは赤ちゃん、乳児にとって「食」と「性」という強大な生命の衝動は未分化だという考えです。乳児だからそのこころは「大洋」の状態です。大洋は外壁系の見たり嗅いだり触ったりという感覚を縦波(横波でもいいですが)として、内臓系のお腹が減ったり満腹になったりするような心の動きを横波(こっちが縦波でもいいですけど)とした波の状態とイメージされます。この波がぶつかりあって波がしらを立てる、というイメージを作ります。これが相互に関わりなく波立たせる外壁系と内臓系のそれぞれの経路の感覚をぶつかりあわせるイメージになります。

赤ちゃんがおっぱいをくわえる。このことは「食」であると同時に「性」であると吉本はみなしています。赤ちゃんが乳首をくわえる。このことは乳首が男性器で、口が女性器であるとみなすことができると吉本は書いています。「性」であるということは接触の快美感や排せつの快感があるということになります。それは乳児のなかにもある。おっぱいを吸うといおのうことは、「食」としての衝動として根源的なものですが、同時に「性」としての快美感をもたらす。

その後赤ちゃんが成長していくにしたがって、「食」と「性」とは分離していきます。しかし「食」と「性」が未分化でであった「共時性」はいつまでもなくなることはないと吉本は述べています。ここから重要な考察が生じます。「食」はおっぱいを口でくわえ、乳をのみこみ、胃の中に入れ、やがて排せつする、この「食」にはおっぱいを目で見て、手で触って、口で含み、それが胃のなかに入っていき、排せつするというように、言葉なき「大洋」を形作っている外壁系の感覚と内臓系のこころの動きに関連しています。そしてそれが同時に「性」としての欲動、衝動、快美感とともにあるとすれば、そのことが、つまり「性」がそこに同時にあるということが、内臓系のこころの動きと、外壁系の感覚作用という縦波と横波に性的な意味を与えている、ということになると吉本は考えます。

「食」と「性」が共時的にいっしょにある、おっぱいを吸うことが性的な快感を与えることでもある。だとすれば、内臓と外壁の感覚器官すべてに「性的な意味」が生じる、と吉本は考えます。このことから「エロス覚」という吉本の造語が生まれます。身体の各部に性的な意味がある。それは「エロス覚」と呼んでもいい。「エロス覚」は性感とか性感帯と呼んでも大きく外れはしないでしょうが、意味が狭くなるので、「エロス覚」という造語を作ったのだと思います。この「エロス覚」はくどいようですが、母親と乳児との「食」と「性」の共時性というところから生じてきます。そして「エロス覚」の配置ということで、さまざまな「異常」という問題に吉本は切り込んでいます。精神の「異常」という問題は「大洋」期における「食」と「性」の共時性、そこから生じる「エロス覚」の配置ということに関わるということです。わたしたちの感覚が動くとき、わたしたちの内臓系のこころが動くとき、そこには必ず「性」としての意味があるということになります。こういう考え方に私たちは慣れていないわけですが、そこを抜きに考えると、人を突き動かすものという根源から解離したところで生きることを考えることになるんじゃないでしょうか。「エロス覚」の続きはまた次回で。