常緑樹は建築群の底ではふさはしくない。何故なら其処で季節を感ずるのは、唯風と空の気配と街路樹とからだけであるから。(〈建築についてのノート〉)

常緑樹というのはいつもはっぱをつけている樹でしょうね。それでは季節を感じにくいから、冬には枯れて、春には芽をだすような樹がふさわしいと、なかなか細かいことを言っています。たぶんこのころ思考の抽象作用のなかに埋没していた吉本にとって、自然とか季節とかは都会の建築のあいだに吹く風や街路樹だけだったんでしょう。そうした若い吉本にとって考えること、つまり思考の抽象作用に没頭することは「行く道」だったんです。自分の思想を、つまり自分自身を把握したい、そのためには自分の外界であるこの世界を把握しなければということばかりがある状態が「行く道」です。それに対して「帰る道」というものがあるわけです。そしてたぶん「帰る道」に気づくことは初源にはすべてがあったんじゃないか、ということに気づくことです。ある時吉本は思考を転回させる何かに気づいたと思います。それは吉本が親鸞が好きだということにもつながります。そこが「行きっぱなし」の連中と吉本をわけるところだと思います。



おまけ

ありません。