僕はすでに詩において学ぶべき先達を必要としなくなつた。僕は充分ひとりで歩ける程成長した。あとは絶対と僕との対決がいつもあるだけだ。(断想Ⅵ)

これはずいぶん思いあがったことを言っちゃったなという感じですね。しかしこういうことを書く理由はわかる気がします。吉本に限りませんが、詩を書こうという人は最初は模倣から始めるんですね。熱心は人はそれこそ自分の尊敬する先達である詩人の詩を書き写したり同じ方法で詩を作ろうとするようです。楽器を覚えるときにプロの曲をコピーするようなものですね。そういう模倣が詩を学ぶことの始まりです。模倣だから自分で作ってもなかなか自分の表現にはならない。詩に込める感情や感覚や思考も模倣という感じになります。それを繰り返していくうちに、自分を表現できた、借り物でなく自分の表現になってきたという実感をもてるようになる。

吉本には「初期詩集」としてまとめられた大量の詩があります。毎日のように詩を作り、模倣を脱して自分の表現を獲得していく過程がその初期詩集を辿るとわかります。そしてもはや模倣の必要がなくなった、自分の方法で自分を表現できるようになったと感じた時の詩が「固有時との対話」という詩集だったんじゃないでしょうか。これは自分の詩として公表してもいいと思って、自費出版したんだと思います。

先達が必要としなくなった、という言い方にはもうひとつ別の理由も考えられます。それは敗戦後の世界に入って、戦争中に吉本が敬愛し愛読し模倣した先達の詩人たちがみな戦争翼賛、戦争肯定の詩を書くに至ってしまった。それはなぜか。それはアジアの特性である論理性の欠如、社会が宗教と混淆しているではないかという問題意識が吉本に生じたからではないかと思います。社会や歴史を天皇制の宗教性から切り離して、個の精神からじかに触れるという方法が詩の先達のなかにない。だから戦争肯定になだれこんでいったのだというように思って、もはや先達から学ぶものはないと書いているのかもしれません。えんだ

だとすると、これは吉本がまだ「荒地」を知る前かもしれません。「荒地」は鮎川信夫とか北村太郎とか田村隆一とかの荒地派と呼ばれた詩人たちが戦後の出版した詩誌で、「荒地」の詩は吉本に衝撃を与えました。そこには吉本が敗戦期に問題意識としてもった個の精神性というものが表現されていたからです。それは荒地派の詩人たちが戦争中もそうした精神性を抱いて修練をしてきたことを意味します。だから戦後に詩誌を公刊できたわけです。こんな人たちがいたのかという驚きが吉本をうち、そして吉本は荒地の詩を模倣して再び先達に学ぶことを始めます。だから荒地に出会う前の文章かもしれないと思うわけです。

吉本は自費出版した「固有時との対話」を「荒地」の賞に応募作として送り、そこから荒地派との交流がはじまり、「荒地」派に加入することになります。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。吉本は分裂病に限らず精神疾患の根源を胎児期と胎児期の特色をひきずった言語獲得以前の乳児期にみています。意識の生まれる受胎後8ヵ月以降から乳児期までを吉本は「大洋」期と名づけています。やはり根本的には胎児期とは何かという問題です。胎児期の触覚や聴覚を中心とした察知能力を「内感覚」と名づけて追及したり、乳胎児の全宇宙である母親との察知能力による交流を「内コミュニケーション」と名づけて追及したり、三木成夫の研究を援用して「大洋」を内臓系と外壁系のふたつの感覚の波として描いたりしてきたことをこれまで解説してきました。そうした「大洋」が人間の心とか精神とか呼ばれる、目に見えないなにかの根源をなしているわけですが、それは同時に人間の精神の異常の根源をもなしていることになるでしょう。今回の解説では精神の異常つまり精神疾患とか精神病と呼ばれているものは何かという角度から「母型論」を再び解説するわけなので、「大洋」における異常とは何かということを追いかけてみたいと思います。

ところで「異常」という言い方にも問題はあるわけです。「異常」と「正常」との区別は何かということです。そこには明瞭な区別はないわけです。要するに現在の社会で多数派を占める精神のあり方を「正常」としているだけじゃないかともいえます。強い宗教性の支配する世界、戦時中の日本や今の北朝鮮でその宗教性や教祖を批判したら「異常」ということになるでしょう。それは少数派だからです。あるいは権力に敵対するからです。しかし時代が変われば、かっての「異常」は「正常」になる。だったら5割以上を占めるか占めないかが「正常」と「異常」を区別するにすぎないのか。あるいは現在の社会で5割以上を占める行動の様式、仕事にいってつつがなくこなして家族を営む、というようなことに支障がでてしまう精神状態を「異常」とするのか、ということになります。しかしだったらたとえば金がいっぱいある状態で、そういう「異常」があっても生活が成り立てば「異常」とは言いにくいことになりましょう。それは個人差じゃないか、ということもいえます。

もうひとつ「異常」についても問題があります。それは「異常」と言われている状態は、それは精神の発展段階、そしてそれと対応関係をもつ人類史の発展段階のいずれかの段階に戻ったということじゃないか、ということです。要するに成人の発達段階や歴史の現在性を「正常」として、それ以外の「段階」への移行を「異常」としているだけじゃないか、ということになります。たとえば現在の段階から見て「残酷」とか「野蛮」といえるような事件があります。人を殺すだけでなく、首を切り落としたり、食べてしまったりすれば「残酷」ということになって「異常」の極みということになります。しかしその評価だけで済むのか、というのが吉本の問題意識だと思います。「残酷」とは何か。現在の段階からみて「残酷」といわれるものが、「原始未開」の段階に遡行した精神性のふるまいだとしたら、「原始未開」あるいは吉本の名づけた「アフリカ的段階」における「残酷」の精神内容とは何か、ということです。私たちは残酷なことをしたりされたりすることは嫌でしょうが、「残酷」な表現はけっこう好きです。K−1とかボクシングとか、あるいはホラー映画とかギャング映画とか、「残酷」なものを見物することが好きじゃなきゃ成り立たないジャンルでしょう。あるいは安倍政権がアメリカにけつを叩かれながら進めている「戦争」の準備です。もう年をくったから徴兵されることはないと安心している中小企業の経営者層がそれを支持しているわけです。そこにも現在の「残酷」への欲望があると私は思います。チャンコロやチョーセンをぶっ殺せ、そして若い日本人の兵隊がぶっ殺されることに涙を流したいという欲望です。戦争を支える心情にも性的なものがあると考えれば、そこには「残酷」が性と結びついていた歴史段階とのつながりがあると考えることもできます。もしそうだとして、じゃあ安倍の戦争準備を喜んでいる連中は「異常」だといって済ませていいのかということです。済ませてしまうのが今のリベラル派の状態だとすれば、吉本はきっとそこにも異論があるでしょう。かってノーマン・メイラーというアメリカのユダヤ系の小説家が、戦争を「異常」としかみなさないリベラル派に向かって、戦争にも美があり心をうつものがある、そんなに単純な問題じゃないと言い放ったのを読んだことがありますが、吉本は理論としてその「そんなに単純な問題じゃない」という部分に切り込んだと思います。それも精神の異常といわれている状態への問題意識といえます。

現在に生きるご立派な成人のあなたや私も、なにかがあれば「異常」のなかに落っこちてしまう。あるいはすでに落っこちてしまっている。そして医者にかかれば薬を調合してもらえるし、それを飲んで副作用で体をむくませたり、ぼーっとして「落ち着いて」一日を過ごすことができるようになる。しかし「異常」とはそもそも何か、という問題は医者も答えることができないし、指をさし唾を吐く世間も答えることはできない。そしてそういう「異常」な人が5割をこえたらどうなるんだ?そろそろ超えるような気もします。「正常」であると安心していたあなたや私がただの「時代遅れ」になり、かっての「異常」こそが新しい時代を生きるための方法になる、そんなこともあるし、いままでもいっぱいあったことだと思います。なんか無駄話をして時間切れになりました。「大洋」における「異常」の解説は次回で勘弁してください。飲みすぎた。