思考は眼を持たない。眼を原材とすることはあつても。従つて画家の仕事、即ち絵画は決して思想の表象ではない。それは眼だ。眼が思考するとき、抽象が表現される。(原理の照明)

言語的世界というものがあって、言語的世界が生まれ出るもやもやとした心の世界があるとすると、その心の世界が形成されるのにはふたつの経路があって、ひとつは身体の外壁系の感覚諸器官から入ってくるもので、もうひとつは内臓系の諸器官から入ってくるものだ、吉本がいうようにそう考えてみます。眼というのは感覚諸器官のひとつだから、言語的世界と心の世界が作り出す思考というもののひとつの要素(つまり原材)ではあっても、思考自体は感覚にも内臓にも還元できない領域に跳出したところで行われる。たとえば目で見たものをそのまま言語で書いたような文章があったとする。それは思考の外化されたものだ。その思考には眼という感覚器官から伝達された形状が原材として含まれているが、そこには心と言語の世界の全体のなかでその文章が選択された過程が込められているとみなされる。その過程が思考の本質で、それは感覚器官の単なる反映ではない。
ひらたくいえば思考は眼を必ずしも必要としない。逆にいえば眼が必須の条件である画家の作品は本来的な思考(思想)の表象というにははなはだ不十分で、それは眼に映るものに限定された思考の産物にすぎない、というようなことじゃないでしょうか。
では「母型論
の解説の続きを書かせていただきます。いまこの解説は乳幼児期における男女の分化と言語の獲得との関係という難しい峠にさしかかってうろうろしているわけです。残念ながらここの問題は十分に分かった!というふうには通り抜けていけないと思います。吉本自身がそのように通り抜けているわけではないと思います。しかし少なくとも吉本が踏まえたところはちゃんと指摘してこの峠を通り抜けないと解説の意味をなさないので、じたばたしてみようと思います。
まず言語とリビドーの関係について吉本が述べていることを紹介します。男女の性の分化、男が男になり女が女になることは、性の本源的な力としてのリビドーに関わります。吉本はフロイトは「言葉を表現したいという人間の欲求には必ずリビドーが伴う」と述べていると指摘しています。リビドーはフロイトの概念ですが、吉本はリビドーは狭義に解釈すれば性的な欲動や衝動の表現となるが、広義に解釈すれば「性的」よりも「生命」に近い意味をもつと述べています。リビドーには性の意味合いもあるし、生命の意味合いもある。そうした広義の意味合いを込めたものとリビドーを理解すれば、内臓器官の動きも感覚器官の動きも、器官という器官の動きはすべて、生命表現あるいは性的表現としての広義の意味のリビドーを含むと考えてよい。人間が言葉を使って何かを表現するあらゆるケースが、そのなかに含まれると述べています。これがあらゆる身体器官には「エロス覚」が伴うという吉本の概念につながると思います。どうつながるかはちょっと置いといてですね、ここで言われている重要なことは、言葉の表現には必ずリビドーが伴うということは、逆にいえば言葉の表現が獲得されるときにリビドーは言語的な世界のなかに収納されるということではないか、ということです。吉本はそう考えていると思います。人間の身体のあらゆる器官は性的な、あるいは生命的なリビドーを含んでいる。身体は隅々までエロス的なものだ。その身体器官の動きが感覚系のものも内臓系のものもすべて心のなかに含まれていく、心はまたすべて言語的な世界のなかに含まれていく。それは現在の言語の表現が心のすべてをできるということとは違うのだと思います。しかしたとえてみれば火山のように、身体諸器官の動きはリビドーを含み、そのドロドロとしたマグマが心を形成するとすると、そのマグマはたったひとつの火口である言語に向けて噴出するように傾向づけられる、ということになるんじゃないでしょうか。そうなると精神の異常というものも、必ず言語の異常と関係づけられるということになります。ここも重要ですがちょっと置いときます。
するとこんどは言語というものを吉本はどう考えているかという問題になります。これはちゃんと説明しようとすれば膨大な解説を必要としますが、本質論のところでかいつまんでいえば、吉本は言語を「指示表出」と「自己表出」とが織り込まれた織物のようなものとみなしています。指示表出の言語と自己表出の言語がふた通りあるということではなく、どんな言語にも指示表出性と自己表出性が要素として含まれていて、そのどちらの要素が大きいかによって言語の特徴を分類できるということになります。たとえば動詞とか名詞とか助詞という品詞の分類も、品詞の分類よりもより本質的な言語本質である指示表出と自己表出によって論理づけることができるし、品詞の分類といわれているものの不十分さもその論理の中で明確になります。
言語の本質である「指示表出」とはなにかを指し示す言語の側面です。眼が花を見て「花」といえばそれは指示表出の強い言語だということになります。つまり名詞というのは指示表出性が強い品詞です。いっぽうで胃が痛くて「うっ」と言ったとすればそれは指示性は少ないわけで、この感嘆詞は内臓の動きが表出されて出てきます。この言語本質の側面を「自己表出」と吉本は呼んでいるわけです。しかし自己表出性の強い品詞も多少の指示表出性を含むし、指示表出性の強い品詞も多少の自己表出性を含むと考えるわけです。これだけの説明ではよくわからないという方は「言語にとって美とは何か」を読んでみてください。
「母型論」で吉本が自分の言語論を推し進めた面があるのは、三木成夫の発生学から学び、その業績を自分の言語論に結びつけたことにあります。指示表出は外壁系の動物神経系の感覚諸器官に、自己表出は内臓系の植物神経系の諸器官に対応するものとみなすことになったわけです。こんどはこのことをあらゆる人間の器官の動きはリビドーをもち、そのリビドーは性的なあるいは生命的な力として言語的世界のなかに込められるというフロイトの思想に結びつけるときに、吉本の言語論はリビドーの側面からも展開されることになると私は考えます。
するとそこで「母型論」の解説の現在の峠である、乳幼児期の男女の分化と言語の獲得の過程が不可分だという吉本の考えがつながると思います。リビドーは本質的に能動的なもので、そういう意味では男性的なもので、リビドー自体に性別は無いとフロイトは述べています。フロイトは男女が分化する以前の状態では女児も男児とともにリビドーは男性的な現れ方をすると述べています。。それは女児にとって膣の性感が目覚める以前の状態で、陰核が性感の中心である時期です。したがってこの時期では、「小さい女の子は小さい男の子」であるわけです。吉本はフロイトが男女未分化の状態とみなした時期の、さらに初源にあたる乳胎児期を別個の特徴をもった「大洋期」とみなすべきだというフロイト批判を行っているわけですが、そこはちょっと置いといて、リビドーとしてみれば男女の差がない未分化の時期から、どのように男女がリビドーとして分化していくか、男とは何か、女とは何かという問題に踏み込まざるをえません。そしてそのことに言語獲得の問題がどう関連するかということについても少しはひっかき傷くらいはつけられるような解説を行いたいと思います。