我々は不思儀にも何らの目的を持つものでない。我々は目的を創り出すことは出来ない。生存の意味がそれを拒否する。(断想Ⅴ)

これは吉本の考え方として何度も登場するものです。つまり目的を持つという以前に我々はすでに無意識の時期としての乳胎児期を持っているわけです。つまりすでに生きちゃってきているわけです。それが生存の意味です。目的というものは我々が言語を獲得し、獲得すると同時に言語的に積み重ねられた共同体のなかに生き始め、その共同体のなかで文明として構築された内部で見出されるものでしょう。しかし我々が繰り返し繰り返し産まれ、繰り返し繰り返し老いて死んでいくという言語以前の生存の意味が、その目的とやらを沈黙のなかで見つめているわけですよ。小さな光の世界を巨大な暗闇が見つめているわけです。その自覚が吉本にこういう言葉を言わせているんだと思います。

おまけです。
「ハイ・エディプス論」(1990言叢社)より   吉本隆明

ひとつは大衆のイメージを思い浮かべると、大衆の無意識と意識が逆転した気がするんです。つまり、逆転するようにわかってきたということです。大衆の理念的意識と、理念的無意識がイメージとしてあるとします。それまでは理念的無意識の方が意識化されるべき大衆の課題として存在したと考えると、それが逆転してきた。大衆の存在自体が露出してきたために、大衆の無意識の方が、かって意識としてみえていたその場所に置かれてね、それから意識された大衆あるいは大衆の意識と考えられていたものが、かって無意識があった場所に置かれて、逆さまになってきたなということです。つまりそんなふうに社会は変わってきました。