無益な思考はすべて有用な思考の糧となつてゐることを僕に教へたのは、怠惰の習性である。(原理の照明)

吉本に怠惰といわれても、あんなに努力した人はいないんじゃないかと思っているからピンとこないですが、主観的には怠惰なんでしょうね。いろんなところで自分のことを怠惰だと言ってますから。怠惰ということと隣り合わせなのはデカダンスでしょう。デカダンスというのは放蕩ってことで、酒を飲んだり女遊びをしたりギャンブルをしたりっていう生活ですね。なまけてればだいたい飲む打つ買うのほうに行きがちじゃないでしょうか。吉本は怠惰とかデカダンスというものの意味について深く考えています。けして否定的ではありません。
怠惰とかデカダンスというものは道をはぐれることですね。ぐれちゃってるわけです。知的に上昇せよとか、地位的に上昇せよとか、倫理的に上昇せよという価値の秩序からぐれちゃっている。デカダン作家と呼ばれた坂口安吾の有名な言葉でいえば「堕ちよ、生きよ」ということになります。ぐれて初めて触れるものというのはあるんだと思います。怠惰とかデカダンスというものは
真面目な人がいうような無内容な体験ではなく、そこには価値の秩序が抑圧し軽蔑し排除した心身の状態があるんだと思います。そこから汲み上げるものを思考として汲み上げることができるなら、それは固定した価値の秩序やその習俗を転回してゆく契機になるということもあるのだと思います。
吉本の高村光太郎論にありますが、高村はパリに留学してなにをしていたか調べてもよくわからない時期があるんだそうです。それは高村がぐれちゃってる時期なんでしょう。デカダンスに溺れちゃっていた時期。吉本がいうには、もしそういう時期が高村になかったら時代に突出するような詩人にはなりえなかっただろうということです。ぐれてしまった時の思考が思想としての糧になっているし、高村光太郎は糧になるように考えることができたということなんでしょう。じゃあ自分も怠けたり遊んだりしてみっかと思ったそこのアナタ。大丈夫、アナタはすでに十分なまけているから ヽ(〜〜。) 
さて「母型論」の解説の続きです。乳(胎)時期に男と女に心的に分化していく。それは同時に乳(胎)児が言語を獲得する過程である。この言語というものは分節化された言語の以前の内コミュニケーションや意味のある言語以前の「あわわ」言葉による母子のコミュニケーションも含んでいるわけです。男女に分化するというのは男女ともにいわば(女性)である受け身でおっぱいを吸っている時期(大洋期)のあとに、男女ともにいわば(男性)である能動的なリビドーの発現期がやってきて、そのあとに男は男になり女は女になる分化の時期がやってくるという順序になります。その分化は男では「口(腔)から陰茎
へ性感の集中する場所が変化することであり、女では「陰核から膣(腔)開口部」へ変化することである。そしてこの性感の場所の移動は「食と性との一体化」という乳児のありかたが、そのあいまいな両義性を解体し、それぞれの性器と栄養を摂取する器官とに分離する過程を意味していると吉本は述べています。またこうもつけ加えています。「この過程はもっと別の言葉でいうこともできる。栄養摂取と性の欲動とが身体の内臓系でいちばん鋭く分離する場所と時期とを択んで、乳児のリビドーは言語的な世界のなかに圧縮され、また抑留されるというように」
この性感の集中する場所の変化ということを吉本は「性的な備給の転換」と述べています。「性的な備給
というのはリビドーという性のエネルギーが母親から乳児に流し込まれることをいうと私は考えました。リビドーの備給はその集中する箇所を転換して、食と性との分化を推し進める。同時にリビドーの備給は乳児のなかで「概念」を対象として流し込まれると吉本は述べているのです。概念というのは言葉の根っこのようなものですから、概念や言葉はリビドーが備給されたものと考えているわけです。フロイドがいうように言葉は性的なものだということです。
それで「概念」というものを吉本がどうとらえているかというと、体壁系の感覚器官がとらえた事物を、空想によって同じ類に属する他の事物と結びつけて連合させることを意味していると述べています。たとえば乳幼児の眼がはじめにとらえた事物は紙に描かれたバラの花であった。おなじ眼があるとき庭の植え込みのひとつを指さして、その木が紙に描かれたバラの花とおなじであると訴える。また別の機会に外出さきの公園でバラの木を見つけて、それが紙に描かれたバラの木や庭の植え込みのあいだに見つけたバラの木と同一だと認知して指さす、というのが吉本が説明している概念形成のたとえです。そしてそんなふうになったとき「大洋
の波動は「概念」と出会い「概念」を知るようになったことを意味すると述べています。
ここでいう「大洋の波動」というのは乳児の内的な世界です。そこにはまだ言葉はありません。しかし母親という全宇宙であり、また能動的な男性性であるものから源泉かけ流しの温泉のようにたえまなくリビドーの備給を受けている状態です。またそこでは重要なものが未だ未分化です。身体としての同一化は出産によって衝撃的に分化されましたが、まだ胎内にいるような状態が続いています。食と性とが未分化です。男女の性が未分化です。内コミュニケーションによって母親と乳児との心的な内容が未分化です。世界自体が未分化ですべてがまだ乳児の環界を包み込んでいるような状態です。
さてここから重要な要素の分化は同時期に相互に連関して成し遂げられていくと吉本は考えていると思います。男女の性の分化についてはフロイトも詳しく考察しています。しかしそれだけではない。言語の獲得ということがどう絡むかです。吉本の言語論でいうと、言語は指示表出と自己表出に分けることができます。指示表出は外壁系の感覚器官からの情報に対応していますから、先ほどの例でいう「バラの花」と「バラの絵」と「バラの木」というものの同一性を認知することが「概念」の始まりだというのは指示表出にあたります。おそらくその指示表出から形成させる「概念」の獲得には男女の分化をそれ自体として促進する契機は少ないように私には思えます。すると自己表出の側面が問題になるはずです。自己表出性は内臓器官を土台にした表出です。それが性的なものの根源のように考えます。
内臓器官の一部である性的な器官がリビドーの備給の転換を受けているときに、概念の獲得という心的な能動性、つまりリビドーの備給も概念に向けて流し込まれ始める。感覚器官と内臓器官そして性的な器官というものが溶け合うように世界に向けてリビドーの備給を言語の始まりとして成し遂げようとしはじめる。そして言語を獲得するにつれて、逆に向こう側から蓄積された言語の世界が、すなわちその時代のその地域の文化や習俗が子供のなかに流れ込んでいくのだと思います。
あのですね、このあたりは吉本も何も言ってくれていないんですよ( ̄〜 ̄;)つまり具体的に男女の分化というものと言語の獲得がどう絡むのかってことを述べていないんですよ。だからしょうがねえから自分でヨチヨチ歩いているわけです。だからそんなヨチヨチ歩きにつきあいたくないという至極もっともな感想を持つ方はこの先は読まないほうが時間の節約ですよ。
では残っていただいた方に向けて。もっともわかりやすそうな例として男の子が女の子を見たり、女の子が男の子を見るということを考えてみます。つまり男女を意識しちゃう時期ということになります。その時期までは男女の違いなんて意識しなかった。いっしょになってパンツいっちょで走り回ったり転んでビービー泣いたりしていた。私の記憶だと幼稚園で横に並ばされていたときに、隣の女の子を意識したというのを覚えています。なんか緊張しちゃったわけです。私は3年保育だったから3歳か4歳くらいなんでしょう。その前は保育園に通わされていた。そこでは女の子を意識した記憶はありません。記憶がないだけで保育園時に意識していたかどうかそれはあてにはなりません。しかしたぶん少しは意識していたような気もするなあ。言葉づかいが違うし、着ているものが違うし、髪型が違うし、こいつらいったいなんなの?っていう感じ。ぼんやりと違いを感じていたんだと思う。こうして次第に女の子という「概念」が、同時に男の子という「概念」が外壁系の感覚器官を通して形成される。そして同時に性の欲動の発達がその概念に含みを与えていくのだと思います。それが自己表出ということだと考えます。
もっと根っこを探れば家族に対する「概念」の形成ということになるはずです。男の子が「母親」を見ることと、女の子が「母親」を見ることの違い、「概念」の形成の違いということを指示表出と自己表出が織りなす言語の獲得というところで考えるということです。もちろん「父親」とか「兄弟姉妹」についても同様です。その「概念」獲得の過程を単に指示表出性の側面からしか見ようとしなかったら、言語の獲得と男女の分化の絡み合いは視えないと思います。それは男女の性の備給の転換という自己表出性の根源の側面を勘定に入れなければならないはずなんですよ。心身のなかで重要な要素が分化していくと、世界がぼんやりと同一化していた段階からそれぞれのものとして分化していく。心が分かれて世界が分かれる。そして世界が次第にのっそりと現れてくるわけです。初源としては性的であることを分厚く押し隠した、歴史と文化と習俗の圧倒的な圧力をもった「世界
が、言語の扉を開け始めた子供に向かってどどーっと殺到してくるともいえます。それに対して母親からの性の備給、源泉かけ流しのリビドーのあたたかさというものだけを武器に、子供はその世界の総攻撃に耐えていくわけです。ではもし24時間源泉かけ流しのはずの湯が、そうではなかったら?気がついたらチョボチョボとしみったれたお湯になってしまって、温泉が次第に冷えてきたら?そしたら振り子は振れて、死の冷たい肌が近づいてくるんじゃないの?
ヨチヨチ歩きをしながら感じたんだけど、知の世界っていうものは男女の世界じゃなくて「人間」の世界っていう感じですよね。男と女では概念が実は根源的に違う。それは男と女ではこの世界自体が違うということです。でもその世界の違いは知的な世界では問題にされない。平たく押しつぶしたのっぺらぼうの「人間」というところでいろいろなことが語られるのだという気がします。それはそれでそれなりの意味があるでしょうけども、実体としての現実では、やはり男と女では世界の見え方自体が違うんだということは重要なことなんだと思う。つまり血の通ったこの娑婆のなかでは。しかし男は女がわからないし、女は男がわからない。しかしわからないままじゃ面白くないので、あまり女性について人生でははかばかしいことのなかった不肖わたくしがさらに女性(と男性)について母型論の解説となるようなことをもう少し掘り下げていきたいと思います。