数々の夢から分裂する悔恨を僕はとうの昔、忘れはてたと信じてゐる。精神は抒情の秩序を失なつてしまつたから。僕が夕ぐれ語り得ることは嬰児の如き単調なレポートだけなのだ(〈夕ぐれと夜との言葉〉)

この初期ノートは1950年頃に書かれているようなので、つまり敗戦直後の混乱期にいる吉本が書いているわけです。吉本は「精神は抒情の秩序を失ってしまった」と書いています。戦争に敗北し、天皇人間宣言をし、軍人たちが戦犯として処刑され、進駐軍が駐留し、復員軍人が外地から引き揚げてきて、闇市ができ、というこの時期を私は体験がないからわかりませんが、この時期が日本人の精神に何を与え何を奪ったのかという課題があるわけです。その課題に吉本は取り組んでいますが、それは「嬰児の如き単調なレポート」というようなものではなく、極度に論理的な取り組みです。しかし「嬰児の如き単調な」という比喩が当てはまるとすれば、「固有時との対話」という詩に顕著なように、自然に対する感受性が風とか光とか影といった少数の要素にまで解体されている自然感性の単調さが当てはまります。極度に内面的で、極度に論理的で、感覚からやってくる自然感性が単調であるところで、黙々と考えることを続けている吉本の若いころの像があるわけです。
敗戦期の精神の課題というものに取り組んだ吉本の考察のひとつとして「言語にとって美とはなにか」の「表現転移論」で取り上げた「戦後表出史論」をあげることができます。詳しく解説するとたいへんですから概要をいえば、敗戦後の数年のうちに現代文学に登場し、その後消失してしまった特異な問題を取り上げているわけです。この表現を担ったのはいわゆる第一次戦後派と言われる文学者で、椎名麟三の「深夜の酒宴」、野間宏の「暗い絵」、武田泰淳の「蝮のすえ」といった初期作品です。もちろんこれ以外にも敗戦後の小説はさまざまな作家によって発表されたわけですが、吉本は第一次戦後派の初期作品に特異な意味づけを与えています。またその日本の表出史に初めて登場した意味は、第一次戦後派の作家たち自身によって風化され消失してしまったとみなしています。
ではその椎名とか野間とか武田の表現の特異な意味とは何かといえば、戦争と敗戦直後の混乱がこれらの作家たちの「私」意識を完膚なきまでに解体したことだと吉本は述べています。完膚なきまでの解体ということは、意識の内部を描き出すのに必要な統覚をさえ失っているということだと考えます。それは自己意識が自己意識を対象化することができないほど崩壊した「私」意識のありかたです。そしてそれは言語表現のなかの「時間」的な秩序が崩壊したことも意味します。私というものの統一した像がない、また時間が進展していく秩序がない、するとどんな小説になるかは実際に読んでもらえばわかりますが、ずぶずぶとのめりこんでしまう沼地を歩いているような印象に似た読書体験になるわけです。しかし同時にその沼地を歩くような印象には、当時の現実に根底的に触れているという手ごたえがあった。こうした徹底した「私」意識の解体はいっぽうでは文学史に初めて登場する文学空間の特異な拡張というものを産み出した。この特異性をさらに突き詰めれば日本文学の新しい文学空間というものを展開できたかもしれないが、第一次戦後派の作家たちは無秩序の意味に耐えられずに、それぞれの方法で戦後社会の秩序に自分を帰属させていって、この文学的意味は消失したと吉本は考えています。こうした考察がこのノートで「抒情の秩序が失われた」と述べていることを吉本自身が掘り下げた一つの成果であると思います。
さて「母型論」の解説のほうに進ませていただきます。幼児期における言語の獲得が男女の分化と密接に関係するという問題です。ここでフロイトの幼児期の理論を取り上げざるを得ないわけですが、本来臨床的な精神分析の成果を基にした無意識の領域を扱っている理論なので、わかったようなわからないような、「本当かね?」という疑問がたえず起こるわけです。一般的な読者の誰が読んでもたぶんそういう印象はあると思います。「こうした特徴が無意識に存在する。それは臨床的に確かめられた」と主張されても、精神分析の臨床家でない私たちには確かめるすべがないからです。
それでもフロイトが少女の性愛について述べているところは大変興味深いので、「女性の性愛について」という論考を追いかけてみました。女性はふたつの性における転換を果たさなければならないとフロイトは述べていると思います。ひとつは陰核から膣に性感が移る転換であり、もうひとつは母親から父親に愛着の対象が移る転換だということです。このふたつの転換にどういう具体的な関係があるのかという詳しいことはまだわからないとフロイトは述べています。こうした考察のなかでフロイトが提出する「去勢不安」とか「陰茎羨望」あるいは「ペニス願望」というような概念が、(ほんとにそんなものが心のなかにあるのかな?)と思うのですが、あるようなないような、確信がもてないわけです。いや無意識にあるのだと言われても、無意識だから意識できないわけでハテナマークが浮かんだままなわけです正直いって。しかたないので理屈の流れを追いかけてみます。
女性の性愛についてフロイトが強調しているのは、前エディプス期、つまり乳幼児期になるんだと思いますが、母親に密着して過ごす受動的な時期の意味がとても大きいということです。この時期はつまり吉本が「大洋期」と名付けた時期です。吉本はこの時期をさらに胎児期に拡張しようとしているわけですが。フロイトはこの前エディプス期の重要性を発見したことを、ギリシア文化の背景に、ミノス的なミケーネ文化を発見した場合と似たような驚きをもたらすと述べています。そして少女が父親に対して特に激しい愛着が存在する場合には、それ以前に同じように強い愛情を母親に注いだ時期があるとフロイトはいいます。そして母親に対する強い愛着をもつ時期に、父親は「うるさいライバル」とみなされると述べています。
では女性はどのようにこの転換を通過するのか。母親への強い愛着から父親への愛着へとどうして転換するのか。ここでフロイトが主張しているのが「陰茎羨望」であり女性には陰茎がないという「去勢されている」という想念だということです。フロイトがいうには、女性は自分が去勢されている(陰茎がない)という事実を認め、男性が優越した存在であり、自分が劣った存在であることを認める。しかし女性はこの事態に反抗する。この「去勢」という事実と、それに対する反抗から女性の性的な発達は三つの方向に分かれるとフロイトは述べています。第一の方向とは、まづ小さな女の子は男女の未分化な時期に能動的な男性的なリビドーをもっている。この時期の小さな女の子は小さな男の子と同様だ。しかし男の子と性器を比較して去勢の事実の大きさに打ちひしがれて、性愛自体に完全に背を向けることになるとフロイトは述べています。こうした女性は他の領域における男性的な活動のすべてを放棄し、同時に性愛そのものを拒否するようになるというのです。第二の方向とは、「去勢」の事実を突き付けられ、自らの脅かされた男性性(小さな女の子のもつ男性性)に頑固なまでに固執し、自己主張する。つまり自分のもつ男性性、能動性にその後の長いあいだ固執するわけです。いつか再びペニスをもてるようになるという願望が、しんじられないほど遅い時期まで維持されることがあり、それが生の目的そのものにまで高められることもある。どんなことがあっても自分は男性なのだという空想が、人生の長い時期にわたって生き生きとした生命を維持する場合があるとフロイトは述べています。またこうした女性の男性コンプレックスが同性愛につながることもあると述べています。第三の方向は、正常な女性の性愛につながる道だそうです。この道は父親を対象として選びエディプス・コンプレックスの女性的な形式をみいだす。エディプス・コンプレックスの女性的な形式というのは、原初的な(大洋期の)母親への愛着の上に父親への愛着が構築されるというものだと思います。それは母親に愛着を抱き、父親に憎悪を抱くという少年のエディプス・コンプレックスと異なるわけです。こう解説していくと、これは正に現在の女性におおきな反発を買うに違いない理論のように思えます。しかし真実は何かが問題なのだから、まだ我慢してフロイトの理論を追ってみましょう。
では母親への強い愛着から始まる女性の性愛が、なぜ父親への愛着に転換するのか。なぜ母親への強い愛着は捨てられるのか。フロイトがいうにはそれはさまざまな要素から成り立っている。ひとつは幼児の強烈な「嫉妬」だといいます。幼児の愛情は際限のないもので、相手のすべてを要求する。他の人と分かち合うことには満足しない。だから幼児は兄弟姉妹に嫉妬し、また父親に嫉妬する。また幼児の愛着の第二の性格は本来目標を持たないものだということである。つまりなにがどうなればいいという限定されたものではなく、果てしなく絶え間ない愛情を要求する。だからそれはいずれ幻滅によって終わりを告げ、代わりに敵意が生まれる宿命にあるとフロイトは述べています。つまり幼児の強すぎる愛着は現実の母親のあり方にいつか必ず幻滅し、母親への愛着を切り離す原因のひとつになるということです。
母親への愛着が捨て去られる第二の要素は、先ほどから取り上げている女性の「去勢コンプレックス」の問題です。この「去勢」の事実を発見しショックを受けた女性が先ほど述べた三つの発達の方向をたどるということになります。すなわち①全体の性生活を放棄する②反抗的に男らしさを過剰に強調する③最終的な女性らしさに向かって発達する、という三つの方向です。
さらにフロイトは少女のオナニー(クリトリスでのオナニー)、これは少女のリビドーの発達段階における「男根期」の活動ですが、このオナニーを発見したかどうか、またどの程度まで禁止されたかが母親への強い愛着をなぜ捨て去るかという問題に関与するとフロイトは述べます。少女が母親(または母親の代理者)にオナニーを禁止される場合に、少女が強情にオナニーを続けた場合には、少女は男性らしさを強調するようになる。少女がオナニーをやめなかった場合でも、禁止の心理的な効果は存在する。つまり禁止によって罪悪感を植え付けられてオナニーによって満足を得られなくなる。その自由に性的なオナニーにふけることができなかったという恨みが、愛着の対象を母親から父親に転換させる要素になるとフロイトはいいます。
また少女は自身の「去勢」の事実を受け入れるが、最初は自分だけに去勢が行われたと考える。しかしその後、すべての少女が去勢されていることやすべての女性が去勢されていることを認識し、そのことが母親を含むすべての女性そのものの価値を著しく低下させることになるとフロイトは述べます。少女は母親に対して、自分に男の子のような性器をつけて生んでくれなかったことを非難するようになるとフロイトはいいます。
このことに続いて母親に対する第二の非難は、お乳を十分に与えてくれなかったとか、十分に時間をかけて授乳してくれなかったという非難をフロイトはあげています。ここで異和感を感じます。吉本においては授乳の問題はもっと大きなものとして取り上げられているからです。フロイトと吉本の母子関係のとらえ方の差異があらわれてきます。
フロイトの述べる少女の去勢コンプレックスという概念がどのくらいの真実を含んでいるのか残念ながら私にはまだわかりません。しかしフロイトが提起した少女の性愛の転換ということがなぜ起こるかという問題は重要であると考えます。また別のところからこの問題に踏み込んでみたいと思います。