あゝ貧しい人達! 君達は長い間、すべての美や真実や正義やを、神へ、それから権威へ、それから卑しい帝王へ、あづけてきた。空しくそれを習慣のやうに行つてきた。今こそそれを君たちの間に取かへすのだ。破れ切つた軒端や赤茶けた畳の上に。それから諍ひの好きだつた君達の同胞達のうへに。僕は血の通つた人達だけを好きなのだ。(エリアンの感想の断片)

これはへたな解説は不要なので、このまま読んで伝わってくるもので十分だと思います。これが吉本の終生変わらなかった思想的肉体というべきもので、吉本の思想をおおかたの政治的人間や知的人間の思想と別のものにさせているところだと私は思います。意味だけをとれば、「貧しい労働者よ立ち上がれ
といった社会主義的なスローガンと同じですが、文章の価値として受け取った時にまるで違うものにしているのは、いわゆる文体です。つまりこうした文章が表出されてくる場所が違うんだということです。表出されてくる場所が吉本の頭脳だけでなくはらわたからでもあるということで、それははらわたの言葉をはらわたで聴くという読者にはわかるわけです。わからない奴にはわからないけど。ありゃ、結局解説してるじゃん(f^^)
それではすべての美や真実や正義を当時なら赤茶けた畳の上に、今ならニトリで買ってきた安いカーペットの上に取り返すために存在した吉本の思想の、最後にそびえる「母型論」のほうへ解説を進めたいと思います。この解説は現在「母型論」の、乳胎児期つまり「大洋」期が言語を獲得する段階にさしかかっています。ここがまた箱根の山のような天下の難所ですので、どっかりと座りこんで取り組みたいと思います。
この前言語状態が言語すなわち概念を獲得するということには様々な問題が集中しています。まずはそれを概説してみたいと思います。ひとつは今まで解説してきた前言語状態、あるいは「大洋」期、あるいは乳胎児期というものの特質が言語状態への転換でどう変化するだろうかという問題です。「大洋」期の特質のひとつは「母親」が全世界だということになります。ここにはまた東西の育児文化の違いという問題がからんできます。しかし「母親」が乳胎児にとって全世界であるという特質は育児文化の違いはあれ、普遍的に存在する特質だといえると思います。全世界である「母親」に対して乳児は身体的な男女を問わず受け身で、母親と言語のない察知の交換を行い、乳児は母親の無意識を含む心的内容を刷り込まれる。したがって「大洋」期においては乳児は男女を問わず女性的であり、母親は相対的に男性的であることになります。この「女である乳児」が、どのようにフロイドのいう「乳幼児には男性と女性の分離は存在しない。男児でも女児でもリビドーは男性的な本質をもっている」という見解(これは男女の分離ということを身体器官として言っているのではくリビドーの性質としていっているわけですが)そのフロイドの見解とどう対応させればいいのかという問題があります。また「大洋」期に女性であり、その後に男女ともに男性的であるリビドーの時期を持つとすれば、そこから男女のリビドーの違い、つまり男と女に性的に分離していくのはどういう過程なのかという問題があるわけです。
吉本がここで指摘している重要なことは、ひとつはフロイド批判であってフロイドは「大洋」期を独自の重要性をもつ時期として設定しないで、乳幼児期として一括しているということです。もうひとつはこの幼児期における男女の分化には言語の獲得ということが必然的に関係しているのだということです。性としてみたときに未分化である男女の乳幼児が男女に分化することは、男女の性感の身体の場所が変わることを意味します。その性感の場所の移行は、吉本の考えでは「大洋」期が「概念」につまり言語に接触する過程と対応しています。その移行とは、吉本は男性の乳児にとっては、口(腔)から陰茎へ、女性の乳児にとっては、陰核から膣(腔)開口部へ性感が移る過程だと述べているわけです。
「大洋」期、性感の移行、男女の分化、言語の獲得といった問題が集中して絡み合ってくるわけですが、言語ということでは吉本には「言語にとって美とは何か」を根底とする言語論があるわけです。吉本の解説である以上、吉本の全言語論というものに「母型論」のこの箇所を結びつけないわけにはいかないわけです。えらいことになっちゃったな(~ヘ~;)さらに大変なのは男とは何か、女とは何かという本質論であることです。これもえらいこっちゃ。奥手だから女のことなんかよく知らないのに僕。まあでもやってみます。
さて前言語状態が言語を獲得するということに連なる問題はこれにとどまるものではないと思います。もうひとつはこの乳幼児期の言語獲得の段階を、どのように歴史概念に対応させることができるかという問題だと思います。これは胎児から始まる精神発達の問題を、どのように共同体の歴史に対応させるかという問題として以前に解説してきたことと同じです。この観点はヘーゲルの歴史段階の概念が同時に空間的な地理的な概念に置き換えられるという方法から、おそらく発想を得たものだと私は勝手に思っているんですが、吉本は乳胎児期からの精神的な発達の段階を歴史段階に同時に置き換えられる方法を模索したのだと思います。なぜこうした方法を模索するかというと、最初の初期ノートの文章に戻ってもいいわけですが、赤茶けた畳の上で毎日のいさかいを繰り返しているようなアナタの生活、つまり一般大衆の生活ということのなかにすべての価値を収斂させようという吉本の変わらぬ思想的肉体が模索させているといえると私は思います。これは特にそう書いてあるわけではないし、そう読まなくても別に支障はないわけですが、吉本とは何者かということからいえば核心にあたることだと私は思います。昔話に、険しい峠があって死んだり怪我したりする村人がいて、その人たちのためにコツコツと山をうがってトンネルを作ったお坊さんというような話があるでしょ。吉本はそういう坊さんみたいなもんですよ。いくらそのトンネルを掘る仕事が長期にわたり、仕事自体として凄いといっても、それは村人を安全に山の向こうに行かせるための仕事だということです。
心的な発達の問題を対乳児期にさかのぼらせ、さらにその全心的発達の問題を歴史段階の問題に対応づけようとすることは、峠の存在に悩んでいる村人の問題に関わります。それは単に知的な問題とみなすこととは髪一重で違うことなんですよ。その心的な問題の拡張と歴史段階への置き換えが村人の悩む峠とは別の道を拓くことの重要なひとつは、それが精神障害の問題に別の道を拓くからです。つまり現在の個人の異常といわれることは、ひとつは胎児期からの発達の問題として考え、同時にそれに対応する歴史段階の問題と考えることができるとすれば、個人の異常と呼ばれるものはある心的な発展段階とそれに対応する歴史段階の再現だともみなせることになると思います。それは異常という概念を転換するものです。さらにそこまで初源にさかのぼることができるならば、いわば相対的な心的発達と歴史段階の見取り図を手に入れることができるわけですから、これからの社会の精神的な問題と歴史的な段階としての問題もある程度見通せることになるわけです。そうすればトンネルは向こう側に開通し向こうの世界の明かりが射すということになるでしょう。そうすれば赤茶けた畳の上のいさかいにも明るい光が射すことになるかもしれないってことですよ。まあそういう途中でたいてい坊さんは死んじゃうわけだけど、坊さんを拝んだってしかたないんで、そのトンネルをまた掘り進めるしかないんじゃないでしょうか。