精神は絶えず振幅してゐる。或るときは振動子は確かに死の側にあつた。僕が何故死ななかつたかと言へば、振動子の周期が、僕の自棄よりもやや速やかだつたからだ。(原理の照明)

いっぽうで化学の実験や仕事をやりながらこういうノートを書いているんでしょうね。思考を化学実験のように描くからね。要するに死んじまおうとまで思い詰める寸前に、それを忘れて生きるほうへ振り子が振れることが繰り返されたということをいっています。死んでしまおうと思った、少なくとも生きていたくないと思ったことが吉本にはあったということですね。死というものを吉本はよくよく考えてきていますが、それは死にたかった自分のことを考えているともいえます。そしていまや本当に吉本は死んでしまった。老衰という吉本の理想の死に近かったと思います。死んだら町会葬にしてくれと晩年にいっていました。それに近いひっそりとした葬儀を近親だけでやって済ませたと思います。見事なもんだともいえましょう。そうか死というのはそういうものかと、吉本のその生涯が彼の思想とともに言葉ではなく伝えてくるものがあるんですよ。ああなんとなくわかる気がするという感じで。吉本は私たちに忘れがたい死のイメージを残してくれたと思います。


おまけです。
「フランシス子
というのは吉本が晩年に飼っていた多数の猫のなかで吉本にとてもなついた猫だそうです。フランシス子というおかしな名前は同居していた吉本の長女がつけたらしい。これは聞き書きを編集者が文章に直した本です。この本がたぶん吉本の遺作なのかもしれません。

「フランシス子へ」より(2013年 講談社刊)   吉本隆明

猫っていうのは本当に不思議なもんです。
猫にしかない、独特の魅力があるんですね。
それは何かっていったら、自分が猫に近づいて飼っていると、猫も自分の「うつし」を返すようになってくる。

あの合わせ鏡のような同体感をいったいどう言ったらいいんでしょう。
自分の「うつし」がそこにいるっていうあの感じというのは、ちょっとほかの動物ではたとえようがない気がします。

僕は「言葉」というものを考え尽くそうとしてきたけれど、猫っていうのは、こっちがまだ「言葉」にしていない感情まで正確に推察して、そっくりそのまま返してくる。

どうしてそんなことができるんだろう。
これはちょっとたまらんなあって。

(中略)

うつしそのもの。
自分のほかに自分がいる。