原則として語られる限り、言葉は人間の自由にはならない。人間が言葉の自由になるより外に表現は成立しない。この場合人間の思考もまた言葉の自由になるより外ない。(断想Ⅶ)

「言葉の自由になる
という言い方はあまりこなれていない言い方だと思います。人間が幼児期に言葉を獲得するときに、すでに言葉は外部に存在します。幼児はそれを習得していきます。しかし同時に言葉は人間が人類史として、どこかで自ら生み出したものです。サルの祖先と人間の祖先が枝分かれした時期に、人間の祖先は言葉を生み出した。母音を分節化させて、うなり声や吠える声と同様の単純で発しやすい母音をさらに分節化して、極度の集中と呼吸を止める苦しみに耐えて人類初というか生物初の言葉というものを生み出していった。その苦しみの痕跡は言葉というものの奥底に眠っているはずです。それがむき出しになってくるのは失語症とかさまざまな言葉の異常として現象する精神病者のあり方だと思います。そして人間に極度の呼吸を止める苦しみと極度の集中を強いて言葉を生み出させたものは何かといったら、それが人間がもつことを強いられた人間的な本質だということになると思います。
人間はそうした言葉の出自の上に、それぞれの民族語を発展させ、言葉によって法や科学や文芸や生活語を積み上げていったわけです。言葉には用法があり、規則があり、通用する単語の集積があり、そのなかに幼児は投げ込まれ次第に習得していく。そうした、言葉には積み重ねられた歴史性の重量というものがあって、同時に言葉は人間的な本質として個の内面から湧き出す側面をもっているわけです。そうした複雑さを「言葉は人間の自由にはならない」という言い方で言っているのだと思います。こうした文章から吉本が言葉が生み出す作品や表現だけでなく、言葉自体がもつ謎に大きな関心をもっていることを読み取ればいいのだと思います。
では投げ込まれた幼児の問題に、すなわち毎度おなじみ「母型論」のほうに入らせていただきます。10か月余り胎内にあり出産を経て、この世にやってくる。あなたも私もそうだったわけです。しかしフロイドが幼児期健忘と名付けた時期を経るために、宇宙人がUFOの目撃者の記憶を消すために発射した光線を浴びたように、あるいはホラーに出てくるような本当は町の外側には怖ろしい世界があることを忘れさせられてにぎやかに楽しげに日々を送る人々のように、ケロリとしてあの世界、自らが胎内にいて、怖ろしい外部世界にひり出されて、恐怖で絶叫し、まっぱだかで母親に抱かれて眠ったような、そういうほんの何十年かまえのリアリティーを忘れているわけです。忘れているというか、心が閉ざされていて、まるでどこまでもこの世界が平坦に続いているような錯覚を持たされている。ほんとうは「進撃の巨人」のマンガのように、町の果ての壁の向こうには怖ろしい世界が広がっているのに。すぐれたホラーとかSFとかファンタジーとかのマンガや映画は、そういうこの世界とあの世界の被膜に気づいて生み出されていくんじゃないでしょうか。それはともかく、いちばんめんどくさい超難しい「母型論」の箇所に突入していきましょう。
吉本は「母型論」でとてもむずかしいことを書いています。少なくとも私にとっては難しいわけで「なんだそんなの。俺が完璧に解説してやるよ」という人がいるなら、いつでも交代しますから手をあげてください。吉本が亡くなった時、追悼の特集雑誌がいろいろと出て、そのなかに「母型論」を詳しく論じてくれるものがないか、あったらそれをパクってしまえと思って探したけれど詳しく論じたものは見つからなかったですね。ちぇ、「母型論」も「アフリカ的段階」のようにパンパンと拝んで神棚にしまって忘れるつもりか?いいよ、じぶんでやるから。
「母型論」のむずかしい箇所というのは幼児が言語を獲得する時期の問題です。「母型論」で吉本は多大な影響を受け尊敬しているフロイドの思想に異論を提出しているわけです。それはなによりも吉本が「大洋」という時期を独自に設定したことにあらわれていると考えます。「大洋」と名付けた時期は幼児が言葉を獲得する以前、つまり前言語状態の乳胎児の時期だと思います。胎内で諸感覚が形成され、意識を持ち、夢を見始める。そうした胎児が用意したものが出産を経て乳児としてさらに発達していく。そして言語を獲得するわけですが、この時期を「大洋」期として提出した理由は、フロイドがこの時期を幼児期のなかに無造作に混入させているということへの批判なのだと思います。なぜ「大洋」期というものが独自に設定されなければならないか。それは「母」というものが、あるいは母子関係というものが人間の心の世界の根底にあるとみなすからです。フロイドの思想やその影響下に展開された思想だと幼児期の問題が、つまり言語獲得以降の問題が中心となっていく。それは必然的に「父」の問題、つまり「父」を通しての社会の問題が中心となるわけです。それはエディプスの問題です。それはたしかに重要な問題なんだけども、吉本はそれ以前の時期の重要性を区分して考えるべきだと言っているんだと思う。それが「大洋」期ですよ。「大洋」期、つまり乳胎児期をどうとらえるかというときにいくつかの柱があります。その一つは三木茂夫の理論です。三木茂夫の理論に出会って吉本は驚愕しています。吉本が何に驚愕したかといえば、三木茂夫がにんげんを内臓系と外壁系に解剖学的に、また発生学的に区分したことにまずはあったんだと思います。この区分が吉本が独自に創った心の世界の理論、「心的現象論」の理論に対応したわけです。ということは吉本思想の論理一貫性として吉本の言語論、「言語にとって美とは何か」の理論とも対応したわけです。三木茂夫は心や言語について体系的な理論を作ったわけではありません。しかし吉本はこれで総合的な自らの思想の身体的な基盤ができると考え興奮したと思います。
三木茂夫は胎児期にさかのぼって、生物誌と人類史のつながり、それは植物と動物と人間とのつながりでもあるわけですが、それを解明し、そして人体というよりも生物体における内臓系と外壁系の関係を解き明かしてみせた。吉本はその内臓系から「表出」されたものと、外壁系から「表出」されたものとしての「心的な世界」というもの、そして心的な世界から「表出」されたものとしての「言語」の世界というもの、そして「共同幻想論」や「アフリカ的段階」などに結実した人類の内面史に焦点を当てた史観とを関係づけ理論づけたいと熱望したんだと私は思います。その途上で吉本は亡くなりましたが、それでも基礎工事だけはしていった。そのひとつが「母型論」だと思っています。だから「母型論」が吉本の思想を根底で結びつけるという解説があったっていいわけですよ。もっと頭のいい人がやってほしいよ実際。老人の世話と家庭のこととかで手一杯なんだよこっちゃあ(T_T)
さてぼやきつつ進んでおりますが、そうした三木茂夫の理論を土台にして幼児の言語獲得の問題に入る際に、むずかしいと私が思うのは次のことです。そもそもフロイドがリビドーとか性の欲動とか名付けたものがよくわからない。「大洋」期の乳胎児とはどういう存在か。それは性的な存在だ。といっていいんだろうか。性的な存在とは何か。それは快不快の原則で言語もなくうにうにしている赤ちゃんのありようです。不快なら泣くし快適なら笑う。性というとつい成人の男女のセックスとかエッチとかというイメージが出てきますが、フロイドがいう性というのはもっと大きな概念です。よくわからないから性とかリビドーを生命のエネルギーのようなものととりあえず考えておきます。
その性の存在である乳胎児、特に乳児を取り上げると、乳児にとって母親とは何か。そしてここには東西の子育ての習俗の違いがからんでくるわけです。そこで単純化するために日本の子育ての習俗、つまり母親が生まれた子供に添い寝して密着してすごす子育てを取り上げてみます。
すると典型的に「大洋」期というものは、特に日本のような子育ての習俗では「母親が全世界」という状態になるわけです。そこには母子の密着し、一体化した関係しかないわけです。だからもしも母親が理想的なら全世界は理想的になるわけだし、もし母親に異常や屈折があればそれはどうしようもなく必然的に、圧倒的に乳児の前言語状態の無意識に刷り込まれていくわけでしょう。東西の子育ての違いはあるとはいえ、この「大洋」期の母子関係は「母親が全世界」という時期としての独自性をもっているわけです。
なぜこの時期が重要なのかといえば、それは乳幼児のリビドーのあり方を原則的に決定するものだからです。フロイドは男女ともに幼児期にはリビドーは男性的にあらわれると考えたと私は思っています。逆にいえば幼児期にリビドーが男性的にあらわれることに身体的な男女の差はまだないということです。しかし男は男になり、女は女になる。その分化はなぜ起こるかというフロイドのエディプス理論があるわけです。しかし吉本はひっかかっています。どこにひっかかっているかといえば、男女の区別なしに「大洋」期においては、「母親が男性で、乳児は女性」という関係の時期があるだろうという点です。それは間違いがないでしょう。するとなぜ乳児期に女性的であったものが、男性的な、つまり能動的なリビドーをもつ幼児になるのかということがあるわけです。さらにそこから女性は受動的なリビドーをもつ女性となり、男性はそのまま能動的なリビドーをもつ男性になるのだとすれば、その各段階に存在するものは何かということが謎なわけです。
吉本はこの「男が男になり女が女になる」というリビドーの転換に、「言語の獲得」ということが密接にかかわっていると考えています。ここがまた超難しい。あんたわかります?このことはたぶん吉本自身もずっとよくわからなかったんだと私は思うな。それを三木茂夫の業績に出会って、解けるかもしれないと興奮したと思う。「母型論」にはその興奮が底流しています。それはまた史観の問題として共同体の問題に展開されようとするものです。
もうひとつ吉本がひっかかっている重要なことがあります。それは「大洋」期が性の全面性の時期だとすれば、それはにんげんにとってなんだ?ということです。そして三木茂夫に出会って吉本が考えたことは性というものは三木茂夫のいうリズム、あるいは波動というものと関わるということだと思います。三木茂夫は自然というものの特性としてひとつは螺旋ということを、もうひとつはリズムということをあげています。このリズムということは、さらに三木茂夫の思想では自然の呼吸ということにつながるわけです。そして三木茂夫が考えた重要なこととして、にんげんの精神的な身体的な活動はすべて自然な呼吸を妨げることを代償として行われることがあります。そのリズム、あるいは自然な律動、波動というものが言語獲得ということの過程で失われるという問題に吉本はひっかっかっているわけです。それは根底的なひっかかりかたで、にんげんとか人類史とは何かということ自体へのひっかかりだと私は思います。性としてのにんげんとはなんだろう。それが言語獲得で失われるとはにんげんにとって何か。それは史観として、つまりこの社会がこれからどうなるかという展望としてどう扱いうるか。こういうむずかしい、わかりにくいことを、おれっちの悪いあたまでまた次回も書こうとしてるんだから、おれもアレだけど根気よく読んでるあんたもナンだよね。ご苦労様です。すいません。