(前略)姉が心臓の疲弊で苦しんでゐた頃、僕は二、三日前読んだマルセル・プルーストの一節を心の中で繰返したりしてゐた、何といふ不様なことだらう、僕には幸福とも不幸とも思へぬ平凡な家庭を、姉は死ぬ程恋しがつてゐた、何といふ相違だらう、やがて姉の死と同時に、あれ程深い印象を刻んでゐたプルースト「失なひし時を索めて」のカデンツアが僕の心から遠退いていつた。姉の死が代つて僕を領したからだ、人は語り得る部分よりも沈黙のうちに守つてゐる部分を遥かに多く蔵つてゐる、殊に他人より一層そのやうであつた姉のために、僕がこれだけ

吉本のお姉さんは敗戦後の食い物のない時代に肺結核で亡くなるんですね。お姉さんは短歌を作るのが好きだったわけです。初期ノートのあとがきにありますが、お姉さんが参加していた短歌誌の主催者の人に、当時の吉本の勘繰りでは、お姉さんは秘かに好意を寄せていたのではないかと書かれています。お姉さんの遺作になった短歌のひとつはもしかしたらその人のことを歌ったのかもしれない。この短歌は私も好きです。いい歌だと思う。
 夕星の輝きそめし外にたちて別れの言葉短くいいぬ    吉本政枝
吉本が「大衆の原像」という一般大衆についての思想を作るときに、この若くして亡くなったお姉さんや父母や私塾の教師などの身近な人々についてよくよく考えただろうと思います。このノートの一節にもその片鱗は見出せます。吉本はお姉さんが肺結核で苦しんでいたときに、吉本はプルーストの文学の観念に夢中になっていた。そのことを「何という不様なことだろう」と感じる。その感性が吉本の大衆についての思想の核にあるんだと思います。
これを読むと小林秀雄富永太郎の死に際して書いた文章を思い出します。富永太郎は小林より一つ年上の詩人で、25歳でやはり肺結核で亡くなります。小林は死ぬ前の富永の家に行き、その病の重さが顔に表れている様子を見るのですが、なぜか富永の病がその時の小林の心を占めることがなかったと書いています。小林はおそらく吉本のように文学の観念に心を占められていて、ふたりで文学の話をして別れたというようなことだったのでしょう。富永が亡くなって、小林はそのことにこだわり傷ついています。つまりそういう感性です。大衆の生活と、知や観念の世界の間にある裂け目に鋭敏にならざるをえない感性なんで、それが小林と吉本をつなぐものだと思います。この小林から吉本に受け継がれる大衆についての感性は、たぶん文学にとって本質的なものなんですよね。小林や吉本が傷ついたこの感性は、ヨーロッパでも本格的な文学者が同様に傷ついて文学として追求したものだと思います。そしてこの感性は知の世界から自分を引きはがす作用をもつわけです。だから知の世界が一方でつながっている権力の世界からも自分を引きはがしてしまうんだと思います。つまり東大を出ると権力に近づきやすくなるということがあるでしょう。そういう知が権力につながる通路が通りにくくなるんだと思います。つまり思想や文学に本格的にのめり込むと権力的に偉くなりにくいってことです。とはいえアナタが偉くなれなかったのは知や文学に本格的にのめり込んだから、とは限らないんでそこのとこはヨロシクです( ̄+ー ̄)
それはともかく「母型論」の解説の続きを書かせていただきます。吉本は幼児期における男女の分化と言語の獲得には密接な関連があるはずだと書いています。この関連の具体的な細部については吉本が触れていないので困るわけですが、ここでは人間と人間以外のたとえば「動物
について比較して考えてみます。人間が男女に分化することと、動物が男女(雌雄)に分化することにはどのような違いがあるか。吉本は「動物はエディプスそのものであるような存在だ」と述べています。この意味は、動物にももちろん母親(とその背後にいる父親)の影響は考えられます。わかりやすく捨てられた犬猫と、母親のもとで十分に授乳されて育った犬猫を考えれば明白であると思います。その母(と父)の影響、つまりエディプスは人間と違って対象化されることはないわけです。捨て猫捨て猫の性格を、可愛がられた猫は可愛がられた猫の性格を生きるだけです。捨て猫として育ちひねくれてなつきにくくなるのは、たぶん人間が捨てられた場合と同じエディプスでしょうが、その生い立ちの不幸をそれ自体として見つめる意識というものはない。
そしてその対象化の契機となるのは言語の獲得、とそれに至る乳胎児期からの内コミュニケーションにおける準備段階であるわけです。
人間には他の動物にない特徴がある。それは他の動物が自然の一部であるのとは違って、人間は自然に対して対立の意識、あるいは異和の意識の芽生えをもつ。人間が自然に対して異和の意識、対立の意識を持つということは、同時に人間が自分自身に対しても対立や異和の意識を持つということを意味している。そして人間の自分自身への対立、異和の意識は、自分の周りの人間との間の対立や異和の意識となって現れる。それが人間と周囲の人間の「関係」の意識を作り上げる。それは一対一の関係の意識と共同体の関係の意識とに分化していく。こうした自然に対する、自身に対する、周囲の人間や共同体に対する対立、異和の意識が生み出す(疎外する)ものが人間の幻想性だというのが吉本の幻想論なんだと私は思っています。
動物には「関係」というものがないわけだと思います。動物も群れを作り、家族を作り、あるいは一匹だけはぐれて生きるということがあるわけですが、それはそれ自体として意識されないから幻想性としての「関係」はないということになるんでしょう。だから人間と動物の男女の分化についてなにがどう違うかといえば、人間は男女に分かれていくということ自体を累積された文化のなかで自らが対象化し、自分で自分の男女の差について考え、男であるとか女であるということについて自分で意識し、あるいはそれに反発し、そのことに苦しむということが人間の人間だけの特性だといえるんだと思います。そのことを人間の言語の獲得が男女の分化に密接に関連すると吉本は言っていると・・・まあそれ以上は私にはわからなかったですね(・・,)
ここで男女の分化についてフロイトが述べていることを要約してみたいと思います。なぜなら吉本が「母型論」でもっとも依拠し、また異論を抱き、繰り返し考察の対象としているのはフロイトの古典的な理論だからです。フロイトの理論は多くの批判や否定にさらされてきているわけです。しかし批判するにも否定するにもまずは理解しなくちゃしょうがないもんね。あとぼやきを言わせていただくと、こうした男女の問題というのは語りにくいんですよね。だって俺は男だから、「人間とは
とかいうならなんとか普遍的な装いもできるけど、「女とは」と言っちゃうと「男のおまえに女がわかるのか」と言われることがあるわけだし、男女の関係のことを言えば「ヨダなんかに(`Д´*) 男女のことでわかったようなことを言う資格はないね」と言われてもしょうがないこともあるわけですよ。しかしそれでもここは通らなければならない峠だから満身創痍で越えてみます。
フロイトの考え方をわかりやすくするために、なんで男は男らしくなり女は女らしくなるか、ということを「男には男らしくなる本能があり、女には女らしくなる本能があるのさ」というありがちな考えに対するフロイトの異論から入ってみます。本能がある、というのはフロイトの概念でいえば男には男のリビドーがあり、女には女のリビドーがあるということです。しかしフロイトは「リビドーには性別はありません」と言っているわけです。男性的、女性的ということを能動的、受動的ということだとみなしてみます。するとフロイトの考えではリビドーというものは男女を問わず能動的なものです。つまりリビドーは男性的な積極的な本性を持っているということになります。でもだったらなぜ女性も男性的になっていかないのか。
フロイトの考え方からすれば男はリビドーとしてシンプルな発達を遂げるということになります。男の子はまず母親に愛着する。その時期、つまり口は肛門に性感が集中する時期は吉本のいう「大洋期」ですが、その受動的な時期を超えて陰茎に性感が集中し始めると、あとは一路リビドーの能動性に従って母親から母親以外の異性を求めて能動的に発達するということになります。そこにはリビドーとしての発達はシンプルに想定される。あるのは大洋期の普遍的な「女性的」である時期から、フロイトのいう「男根期」への切り替わりだけです。
しかし女性は不可思議です。男の子と同じに受け身で女性的である「大洋期」を過ぎたあと、女性もリビドーの能動的な性質に従う時期を迎えます。それは口や肛門から陰核に性感が移るときであるといえるわけです。この時期は「小さな女の子は小さな男の子である」とフロイトが述べる時期で、男女の分化以前の男女ともに能動的なリビドーに従う「男の子」の時期だとみなされています。ここまでは男の子も女の子も同じようなもんだとリビドー的にはいえるわけです。
「女が女になる謎」はこの後の段階に来るわけです。フロイトの考えでは女の子はこの後、二つの重要な転換を通過しなくてはならない。その通過の仕方についてフロイトが臨床の結果と理論的な判断で作り上げたのがフロイトの女性論です。
フロイトの考えたふたつの重要な転換のひとつは性感の集中する場所が陰核から膣に転換することです。ふたつ目は愛着の対象が同性の母親から異性の父親に転換することです。このふたつの転換のなかで小さな男の子のようだった女の子は「女性
になる。その契機としてフロイトが注目したのは後年特に女性解放論者(いわゆるフェミニスト)の論客から厳しい批判にさらされる「陰茎羨望」の理論です。ひらたくいえば「おちんちんがなぜ自分にはないのか。おちんちんをもつ男の子たちがうらやましい。おちんちんをもっていない自分は劣っている」というようなやがて無意識となって心の奥にしまいこまれる想念だといえるでしょう。
性感の転換が陰核から膣に移行するというときに、陰核は「女の子にとっての小さな陰茎」だとフロイトは考えていると思います。その転換と、陰核への失望が関連しているとみなしているんですよフロイトは。陰核では陰茎になれない、ペニスの代わりにはなれない、ということが陰核での快感を捨てさせるとみなしているんだと思います。同時に愛着の対象が母親から父親に変わるということにも「母親も陰茎をもっていない
と事実への気づきがあり、そのことが母親への失望を生んで、陰茎をもつ父親へ、やがては自分が産む陰茎をもった男の赤ちゃんへの愛着につながっていくとフロイトはみなしていると私は考えます。
するとこのフロイトの考え方は、ずいぶん女性蔑視の考え方ではないかという反発が起こるわけです。イブがアダムの肋骨から生まれたという神話みたいなもんで、女は男への劣等感から生まれたというようなものだから。それもおちんちんを見た衝撃から劣等感が生まれた?なにそれ!ありえないし!イミわからないんですケド!という反発が特に女性から出てくるのは当然でしょう。
しかしここのところを避けて通ると、母型論における重要な峠を避けることになるので、フロイトのこの「陰茎羨望
というまあおおかたの女性の方からは嫌われそうな理論についてもう少し踏み込んでみたいと思います。それにフロイトは毛嫌いして遠ざけるにはもったいない、鋭いことも色々言っているからです。