悲しみはこれを精神と肉体とにわけることは出来ない。それは僕らが自覚と呼ぶもののなかに普遍するあのやりきれない地獄なのです。だから悲しみは理由のなかに求めることは出来ません。むしろ存在とともにあるべきものと言ふべきです。僕は数々の死や訣れや、不遇やに出会つたりしましたが、いつも悲しくはありませんでした。強ひて言へば悲しみよりももつと歪んだ嫌悪に似たものでした。(〈少年と少女へのノート〉)

これも微妙なことがらを述べていて、はらわたで聴くしかないものです。現在に関わることが、いつも根源的なことに同時にかかわることだという吉本の資質というか過敏さのようなものがここにあると思います。それが現実に膜をかけているといえばいえるし、現実の膜を引きはがし引きはがししないといられないという衝動を生んでいるともいえると思います。それですべてを引きはがすことができたとしたら、それでどうなるんだ?というような吉本の詩があったと思いますが、今は思い出せません。

おまけです。
「性理論三篇」より            ジークムント・フロイト
この「男性的」および「女性的」という概念に特定の内容を与えることができるとすれば、リビドーはつねに決まって男性的な性格のものであり、それが男性において現れるか、女性において現れるかは問わないし、その対象が男性であるか女性であるかも問わないと考えることができる。