仮りに僕が何者であらうとも、僕の為すべきことは変らない。(断想Ⅶ)

僕が何者であろうとも、というのは様々な解釈ができますが、僕が為した結果がどのようであろうともということではないかと思います。僕が才能のない者であろうとも、僕が貧しさに拘束された者であろうとも、僕が孤立を余儀なくされる者であろうとも、僕の為すべきことは僕の宿命が決定する。つまり結果がどうであろうとも、僕は僕の動機の深さに賭ける。そういう意味じゃないかと思います。すると一方に結果がすべてだ、結果のためには手段は問わないという考え方があるわけです。将来の自分が描いた理想に向けて、現在を生きる。将来に描いたものが共同体の理想社会というものであり、その実現のために権力をもっている者は常に結果のために手段を選ばずという考え方をもつものだと思います。現在の世界を支配し、手段を選ばずに世界の民衆を羊を追うようにある結果に、つまりその支配者の主観が描く理想社会に囲い込もうとする巨大な金融財閥の存在があります。その金融財閥の頂点に君臨するロックフェラーのような男がもしその死期に臨んで、自分が人間というものをどう思っているか、民衆というものをどうみなしているか、理想の社会というものをどう描いているか、余すところなく語るとしたならば、それは現代のドストエフスキイの「大審問官」のようなもんで、この世界を裏の裏まで透かしとおす視線を与えてくれると思います。たぶん「支配の思想
というものは頂点の奴に語らせれば、そうつまらないものではない。そして吉本の思想は直接にガチにそれと対峙するものです。

おまけです
「ハイ・エディプス論」(1990言叢社)より   吉本隆明
一般的に人はなぜ生きるのかとか、社会というものはなぜ現状はこうであって理想はこうじゃなくちゃならないのか、というその種の一般的な命題すべてに関与するわけです。そういう命題を自分につくりあげたり、自分に課したり、またあるばあいには行ったり、ということがあります。命題の設定はすくなくともその人にとっては不可避だし、「ほんとうのこと」と「うそのこと」を分けたい、あるいは「ほんとうのこと」とは何か追求したい。しかしこのばあい「その命題自体を立てそれを追求すること自体は、追求しないことよりもだめなんだ」という考えは、唯一糸口のような気がします。つまり、追求すること自体、そういう課題をもつこと自体のほうが、追求しないことよりも良いことなんだ、「ほんとうのこと」なんだという考え方はだめなんじゃないでしょうか。それなのに追求することは不可避です。