芸術の精神をあらゆる他の精神から区別する唯ひとつの要素は、それが人間をして彼自身の価値を放棄せしめるといふことである。(断想Ⅳ)

なんだか難しい言い方をしていますが、私なりの平ったい言い方で解釈すると芸術というのは植えつけられた価値観を疑う、ということをどうしても伴うということじゃないかと思います。世間に流通している価値の秩序というものがあります。知識のあるほうが無い者より価値が上だとか、善をおこなう者のほうが悪を行うものより価値が上だとか。そういう価値の秩序に従うことが自分にとって安楽であっても、有利であっても、それを疑いついには放棄することに至る、それが芸術に深入りしていく精神の要素だと言っていると思います。否定するとか逆転するとか言わないで「放棄する」と言っているところがミソだと感じます。吉本が講演会で「あなたはスプーン曲げを行うような人を是としますか非としますか」という質問が質疑応答のときに出たことがありました。よくわからないつまらない質問だと思いますが、吉本は誠実に答えます。その答え方が「それはそういう人(スプーン曲げをする人)がいる、ということじゃないでしょうか。それでいいんじゃないでしょうかねえ。あの、自分の文学という立場に還ると、正しいとか正しくないとか、善だとか悪だとか、そういう区別はなくなるんです」というものでした。既存の価値の秩序が放棄されて、そして無化されようとしているのだと思います。そしてどうしようもない必然として存在するものに至ろうとしているのでしょう。当然、正常とか異常という精神医療の価値の概念も放棄されます。するとただありのままのこころのありようだけがそこにあるということになりましょう。それにじかに向かって、より本質的に考える考え方を探す。するとどうしても現在のありようの初源にさかのぼって、原型的なありようを求めるということになっていきます。そんなわけで、今回も母型論のほうへ話を移させていただきます。
いまこの母型論の解説がさしかかっているのは、乳幼児が言語を獲得するということと乳幼児が男女の性として分化していくということとの関連するところです。ここは難所です。少なくとも私にとっては。男女に分化するというのはどういうことか。その重要なひとつは性感の場所が男女それぞれに違う場所に移行することです。男性の乳児においては性感の場所が口(腔)から陰茎へと移動する。女性の乳児においては陰核から膣(腔)開口部へ移動すると吉本は述べています。しかしこの性感の分化の以前を考える必要があります。分化の以前の状態の乳幼児には男女の違いがないということです。もちろん身体的には違いはあります。心的に違いがないということです。性のあり方として同じなんだということだと思います。大洋期のこの男女未分化の時期の特徴は母親との関係の全面性にあるといえるでしょう。母親が全世界、全宇宙であるわけです。そして母親に依存しておっぱいという「食」をいただかないと死んでしまう完全に受動的な生を生きています。つまりそれは男女未分化で完全に受動的なんだから、男女ともに女性である時期だともいえます。それに対して母親は能動的で男性なのだといえるわけです。この普遍的に男女ともに女性である時期に、おっぱいという「食」とともに「性の欲動」とか「リビドー」とか「エロス」と名付けられたような得体のしれないエネルギーを、激情を、こころを注ぎ込まれます。「食」と「性」とがこの時期にはひとつのものとして備給され、大洋期の乳幼児はそれを全面的にいただくことになります。
この「食」と「性」の一体化している時期とは、言い換えれば「鰓腸系と泌尿系のエロス覚の混同」と吉本が述べている部分とつながっていると思います。鰓腸系というのはつまり口と肛門とをつなぐ「食」の器官だと思います。そのエロス覚というのはいわゆる「肛門性愛」というフロイドの概念であり、口と肛門という外壁系の感覚器官に性感が集まるのだと思います。いっぽうで泌尿器系というのは男女それぞれの性器の場所だと思います。女性の場合、泌尿器系の性器の場所の性感は最初は陰核つまりクリトリスにあり次に膣に移るとされているわけです。その性器に集まる性感を泌尿系のエロス覚と呼んでいる。「食」と「性」が分かれるときにエロス覚、あるいは性感の場所も鰓腸系と泌尿系に分離する。そしてそれ以前に混同されている時期が存在する。それが「大洋期」と吉本が名づけた時期であり、その時期を特定の時期として概念化することが必要だと吉本は考えたわけです。
そしてこの「食」と「性」との分化であり、同時にエロス覚の分化であるこの段階は、乳幼児の言語の獲得ということと不可分の関連性をもっていると吉本は考えています。ここが難しいな〜と私が感じるところです。先走って書いてしまうと、「性」というものをリビドーととりあえず言っておくと、母親がリビドーの源泉になるわけです。源泉かけ流しの湯みたいに昼夜を問わずあふれ出るリビドーの源に、実際になるかどうかは別問題として、なりうるのは母親(あるいは母親の代理者)でしかないのだと思います。そして母親からリビドーをいただいた乳幼児はやがて言語を獲得する。それは吉本の言葉でいえば「大洋の世界がその天抹線で概念を対象として性の備給をなしとげる」ということです。乳幼児に移し植えられたリビドーは言語(概念)に向けられ、言語(概念)のなかにさらに移し植えられる。吉本の言葉でいえば、「栄養摂取と性の欲動とが身体の内臓系でいちばん鋭く分離する場所と時期を択んで、乳児のリビドーは言語的世界のなかに圧縮され、また抑留される」ということです。
ここで重要なのは、この乳児のリビドーが言語的世界に圧縮され、抑留されるとき、「食」と「性」の分化以前のエロス覚、すなわち鰓腸系と泌尿系を混同させるエロス覚もまた言語的世界のなかに収蔵されてしまうと吉本が考えている点です。そしてこの鰓腸系と泌尿系を混同させるエロス覚の表出(跳出)は、「大洋」が言語面を成り立たせてゆく源泉のエネルギーにあたると述べています。するとつまり言語のなかには、大洋期すなわち「食」と「性」が分離していない一体となったエロス覚が根源のエネルギーとして収蔵されているということになるんじゃないかと思います。それはまた男女の未分化のエロス覚のエネルギーでもあるといえると私は思います。
つまりなにもかもが未だひとつに溶け合って未分離であるというカタマリのような生命が、母なる宇宙からすべてをいただいて、そのカタマリのまま言語の初源に流れ込んでいくっていうそんな感じ。まあちょっと落ち着いて考えましょう。たぶんあなたも私も今まで誰からも聞いたことのない見解に触れているわけです。こんなのスッと頭に入るわけないじゃないの。
乳幼児がどのように言語を獲得するか、そしてそれがどのような身体的な変容と関連するかという具体的な詳細は、おそらく吉本もわからないのだと思います。だから理論的にいえることだけを言っているんだと思う。そしてここで私は無造作に言語とか概念とか書いていますが、吉本には独自の言語論があり、その言語の考え方は流布されている言語の考え方とは違います。だから吉本の言語論の要諦に触れて、それと母型論における言語獲得の段階とをつなげなければなりません。しかし物事には段取りがありますので、ちょっと後回しにして、男女が分化するという問題に戻ります。
フロイドは男性の幼児も女性の幼児もそのリビドーは等しく男性的である。なぜならばリビドーの本質が能動的で男性的だからだと述べています。吉本のフロイドへの異論は、その男女ともに男性的であるリビドーの時期、つまり男女未分化の時期の以前に、男女ともに女性である時期があり、その時期を特定する必要があるということになります。そしてフロイドのいう男女ともに男性である時期から男女の分化へと進むわけです。吉本は男女ということについて、母親が同性であるか異性であるかという以外に本質的な差異は考えられないと述べているんです。母親が乳児にとって同性なのか(つまり乳児が女性)異性なのか(乳児が男性)というのが、たいへん重要なことになります。
ここで女性について考えることにします。男性は女性より乳幼児期の変化は単純です。女性である乳児期を過ぎて、能動的な本質をもつリビドーを移し植えられて、自らが能動的な状態に移行していく。そして周囲の世界にむかってうごめきだすわけです。そして「食」と「性」とがエロス覚とともに分離していくと男児のリビドーは陰茎つまりおちんちんに性感として集中し、あとは一路男性として発達していきます。実際にそううまく男になっていくわけではないけれど、おおまかにいえばそうでしょう。しかし女性は複雑です。女性は同性である母親に乳児のときは受け身の女性的な状態で過ごします。そしてリビドーの備給が行われ、能動的なリビドーの命ずるままにフロイドのいう男女未分化の男性的な時期に移っていきます。そして男児はそのまま男になっていくのに、女性はそこから再び女性になるわけです。それはいわば2度の性転換が行われるようなものだと思います。女性から男性に、そして男性から女性にです。2度目の性転換、すなわち男性的な女児から女性に移ることは性感が陰核から膣へと移ることです。ここにさまざまな問題があるわけですが、フロイドが述べているのは女児の母親に対する愛着の深さです。それは同性であるからなのだと思います。つまりこころのなかで同性であるがゆえに、母親と自分との分離が難しいのだと思います。自己への愛は母への愛と、母への愛は自己への愛と区別しがたい。この女児の母親への愛着は「大洋」期でも、そのあとの陰核に性愛が集まる乳幼児期になっても続く。だから女児はエロス覚が陰核から膣(腔)に移行する前に、無意識とその核に、母親への過当な愛着を隠し持っている。このことに例外はないと思うと吉本は述べています。
そしてもしこの女児の乳幼児期の母への過当な愛着に、屈折や挫折や鬱屈があったとすれば、陰核期から膣(腔)期へ性愛が移っていく過程で、父親にたいするエディプス的な愛着が異常に深くなると吉本は述べています。それはこの女児が無意識やその核におし込めてしまったはずの母親への異常に深く屈折した愛着が、無意識のなかから存在を主張していることを意味していると吉本は述べているわけです。つまり父への異常な愛着があるとすれば、それは屈折した母への敗着なんだということです。母親への愛着の深さが本源的なんだということだと思います。
こうした男女それぞれのリビドーのありようが概念の獲得ということのなかで、言語的世界のなかに移し替えられていく。そのことが男女の分化をうながす。いったいどのように?そこがよくわからないんですよ(/_・)
わからないことを無理して書かないで、ちょっと寄り道してみます。吉本の母型論を通して感じるのは男性、女性ということが個人の性としてすっきりと分けられるものじゃないということです。胎児期、あるいは胎児期以前ということから始まって、現在のあんたや私までの経緯がすべてこころのなかに眠っているのだとすれば、男性のなかに女性が、女性のなかに男性が眠っていても、あるいは起きていても(○
○)、不思議はないということになります。あるいはまたドゥルーズガタリという思想家が「n個の性」という概念を提出してるらしいんですが(読んでないからよくわからないけど)要するにn個というのは(いくらでも)ということだと思いますが、性の違いというのは無数に差異が考えられるだけだということだとすれば、そういうこともいえると思います。
こころと原古の共同体との関連ということで考えれば、男女未分化の大洋期に対応するのは氏族共同体のような原始未開の血縁の共同体なのだと思います。その共同体のなかではバイ・セクシュアルな性のありかたが普遍的であって、近親姦がタブーになりきっていない、そう考えてみます。するとそのなかの人々は性的な関係のありかたに応じて男でもあるし女でもあるということになるのではないでしょうか。つまり男であるとか女であるということははっきりと分化されていないわけです。もし大洋期に母子関係に大きな屈折があり、この太古の共同体との同一視がありうるとすれば、その人が同性愛であることや、近親性愛であることや、血縁以外の人間関係に感応できない状態に陥ることには「異常」であるということでなく、要するに最初の初期ノートの文章に戻るなら、そういう人がいる、というだけだと言ってもいいと思います。それは初源からのいきさつとして理路として理解されるべきことじゃないかと思います。そのいきさつを、その理路を逆にていねいに実践的にたどることができないと、きっと別の道は拓けないようになってるんじゃないですかね。そしてもしその人が苦労して、普通の私たちと同じ場所に戻ってきたとして、私たちは果たして「正常」なのかねってこともありますよね。こんな操られたメディアに支配されて、毎日毎日中国や北朝鮮の悪口を刷り込まれて、衰退し戦争に駆り立てられている国家に暮らしている私たちが正常なわけないもんな。