現代においてわれわれから寂寥を奪つてゐるものは事象の高い速度である。それ故われわれは既に受動的な寂寥を失つたと言つてよい。われわれの寂寥は世界に対する能動的な寂寥である。われわれの精神は今や包むもの(世界)としてしか存在し得ない。(〈寂寥についての註〉)

1980年代に入ってから吉本は「マス・イメージ論」を書き、高度資本主義とか超資本主義というべき現在の社会の解明に力を注ぐようになりました。その一連の考察のなかでこの文章にも出てくる「速度」の問題を取り上げています。社会的な速度、時間の流れの速さを決定しているのは、その時代の先端的な産業の生み出す速度だと言っていたと思います。一方ではいまだに前時代的な速度のままの仕事や生活もある。私たちは様々な速度の違いのなかを日々移動しながら生活している。しかし社会の速度を決定しているのは先端的な産業の速度で、それが情報の量とか生起する事件のめまぐるしさとかに表れていく。
なにか自分から本質的なものが失われているという感覚、それが寂寥感だと思いますが、それはもはや社会の速度からいったん自分を切り離して寂寥を感じるという場所は失われてしまった。それはもう「アングラ」というかっての場所が成立しなくなったことと同じことである。それでも自分からなにか本質的なものが失われているということ自体が無くなるわけではない。しかしそれを感じうるところがあるとすれば、それは世界を包括的に捉えようとする能動的な思考の場所にしかない、ということじゃないかと思う。世界に対して受動的になれば、そこには豊富な消費生活も便利な日常生活も存在するけれども、何か本質的なものが失われているという重要な感覚をとらえることができない。受動的なままで、けっこう楽しげにどこかへ押し流されていくだけだ。そんなふうなことが言われているように思います。

おまけです  
「詩人・評論家・作家のための言語論」(1999 株式会社メタローグ刊)

精神の異常や病気について、たとえばフロイトは、自己表出性ないし指示表出性のどちらの側面をとっても、言葉を表現したいという人間の欲求は、広い意味での性的な欲望、性的な衝動、性的な関心と深く関係があると一生懸命に説明しています。フロイトはそれら人間の性的表現を「リビドー」という言葉を使って呼んでいます。