〈反抗の倫理と心理〉反抗の心理のなかに、ひとは例外なく劣等意識を見出さうとする。このことは恐らく正しいだらう。だが何人と言へども現実の桎梏を解き放つことなくして、劣等意識の問題を解くことは出来ない。(断想Ⅵ)

反抗というのは抑圧された者が抑圧している者にあらがうこと、さからうことでしょう。独裁的な政府に対する民衆の反抗、経営者に対する労働者の反抗、教師に対する生徒の反抗、父母に対する子供の反抗。抑圧されているということが劣等意識を生み出す。その劣等意識はふつうはその個人のこころの問題だとみなされます。素直じゃないとか、いじけてるとか、わがままだとか、暗いとか。要するにそんな悩みはおまえが悪いんだ、もっとおとなになれば解決するよみたいな。しかし個人の外側と内側を両方みわたせる眼があるとすれば、その個人的な悩みや反抗というものが現実の桎梏のもたらしたものだということが視えるということを吉本は言っていると思います。
現実というのは家族でもあり、共同体でもあるということになりましょう。家族というのは個人の初源としてみれば乳胎児期にさかのぼることになります。また共同体の初源ということは未開、原始からアジア型の共同体の段階ということになります。そして乳児期の母子の関係と初源の共同体のあり方にある対応づけが成り立つというのが今まで解説してきた吉本の「母型論」的な論理でした。つまり現実の桎梏というものの解明を志した吉本の生涯が、ここでさらに一歩奥行きを増したということになります。
そういうわけで母型論的な吉本の考察にいつものように入るわけですが、ちょっと横道に行ってみます。母型論は乳胎児期の解明をテーマにしているわけですが、吉本の考察は胎児期以前というところにも広がっています。胎児期以前というのは何かというと、わたしもよくわからないんですけど、胎児というのは妊娠して8週目以降を呼ぶらしいんです。それ以前は胎芽というんだそうです。なんで8週目以降を胎児と呼ぶかというと、にんげんの器官が分化して要するにプチにんげんとみなしてよい段階になるからだと思います。しかし胎芽と呼ぼうと胎児と呼ぼうと、それは胎内の成長の流れのなかにありますから、もっと根底から概念づける方法がほしくなるわけです。それに応えてくれるのが三木茂夫の業績です。三木茂夫によれば、にんげんは受胎から30日を過ぎて1週間の間に一億年を費やした脊椎動物の水からの上陸誌を再現すると述べているわけです。それはつまり胎児以前の胎内のドラマです。にんげんは胎内でプチにんげんになる。しかしそれ以前に胎内で魚類から両生類を経て哺乳類にいたる生物誌を通り抜けていく。それはにんげんというより生物とか生命というものの段階をくぐりぬけることでしょう。そこにはにんげんと他の生物との混淆した段階があるので、吉本は古代の仏教というのはそのことを直覚し触れようとしているんじゃないかと言っています。これはおもしろい話題ですが、いまは置いといて。するとその胎児以前の生物誌をくぐるということが心の形成のなかでどういうことになっているのかということがあります。それは吉本が心的現象論で素描した「原生的疎外の領域」という概念と関連するわけです。人類史ではなく生物誌をくぐって胎児となっていく、という問題が心的な問題として解明されるときが来るとすれば、にんげんと自然とか、にんげんと他の生物という古代の宗教がとらえようとした課題に科学として踏み込むことができるのだと思います。それはきっと吉本が親鸞を論じて幾度も言及している「正定聚の位」という「死からの視線」というもののひとつとなるのだと思います。
さらに脱線してよた話をしてしまうと、じゃあ受胎以前ということはなんなんだということがあるでしょう。それは受胎以前なんだから受精であり、それ以前なら精子卵子なわけです。ここまでさかのぼるともはやこころの問題にはならないんでしょうか。文学的な想像力としてなら稲垣足穂なんかはそれはA感覚というものとして辿れるんだというわけです。文学というものが根っこをさらえばすべて母親との関係という問題にがんじがらめになっている、特にアジアである日本ではその母性ということが大きなまゆのように文学を包んでいる、そこから自分の文学を切り離したいという切望があるんだという気がします。受精以前に精子が卵管を進んでいく円筒の感覚にまでさかのぼれるなら、母という桎梏から切り離されて宇宙感覚というべきものに到達することができるという。それは科学的にはよた話にしかすぎないかもしれませんが、しかし古代的な思想のモチーフに接触しているような気がしてなりません。いやどーも寄り道しちゃってすいません。ちょっとマッコリ飲んじゃったからね。
話を戻して、吉本が母親と乳児の関係で心的な傷を乳児に負わせるケースとして3つの例を考えたわけです。ストレートに乳児へのうとましさを表す母親と、外面如菩薩内面如夜叉じゃないけど、外からは慈母に見せて内面のうとましさを覆い隠す母親と、たえず外から追い立てられて安心して授乳できない、早く授乳を終わらせたいという不安定さをもっている母親という3つの類型です。それではうとましさを持たないで理想的な心的な状態で授乳する母親、しかもそれが3世代くらい続いている幸福な母子関係というものはどういうものか。前回も書いたように吉本はもしそういう母子関係で育ったにんげんがいたならば、そいつは生涯続くような結婚というものを求めないだろうと述べています。つまり生涯続くかどうかは別にして続けようとして結婚するわけでしょうから、その根底のモチーフは母子関係で負った傷を癒そうという男女の無意識だと言っているわけです。
しかしそれでも理想に近い育ち方をしたやつもいるでしょう。そいつはどんな奴になるのか。それは興味深いことです。無意識の傷のないやつ。無意識があたたかい愛でできているやつ。バファリンのCMじゃないけど、半分が優しさでできているやつ。ま、アンタじゃないね、少なくとも( ´△`)
吉本も興味深かったのだと私は思います。それはある意味で人類の理想であるからです。そしていや、ほんとうにそれが人類の理想なんだろうか?という疑問もあったと思う。作家論として吉本がこの問題に触れているのは「書物の解体学」で取り上げたヘルダーリン論だと思います。それはおもしろいんだけど、また今度ってことで。
あとはですね、ひとつの共同体のなかに傷をたくさん負ったやつもいれば、理想に近い幸福なやつもいるし、その中間の連中もいるわけでしょう。それはどういうことになっているのか。共同体のなかでのし上がり、権力を奪うことに血道をあげるやつ、人を支配することに喜びを感じるやつ、だまし裏切り本心を押し隠し、じっと相手の弱みを探す抜け目のないやつ。だいたいそういうやつが生き残り権力を握るのだと考えると、権力者というのはなんなんだ、要するにビョーキの連中じゃないかというおおざっぱな観点もあると思います。ひとつの仕事に打ち込み熟達し、後輩を指導でき責任をまかされうる、自然に共同体での地位が上昇するというひととして立派な層の話ではなくて、そういう世間を上から支配したくて、ヤクザのように権謀術策で権力闘争に明け暮れるという人種が存在します。そいつらはそいつらでそのヤクザ人生が無意識の傷を癒そうとしているんだとみなせば、共同体の歴史というものは母子関係の傷を深い傷を負ったやつらが仕切ってきたとおおざっぱにいえるかもしれないじゃないですか。アナタどう思います?
話が横道にそれすぎた。話の順序として今回触れておかなければならないことがあります。それは吉本が3つの類型として母子関係を設定して、それを古代以前の共同体と対応づけたわけですが、共同体と対応づけないで個人の内面の問題として、つまり精神の病としてこの3つの類型がどのように発言するかという問題について吉本が述べていることを解説します。
うとましさを直接にあらわす母親と乳児期を過ごす場合では、前アドレッセンス期(前思春期)に入ったころに女性嫌悪と母性希求の二重化された性向をもつと言っています。そしてそれが限界を超えると、世界と自己との溶融状態の挙動を示すだろうと述べています。この場合世界というのは乳児にとって母親そのもののことです。これが具体的にどういうことなのか、それは今はゆっくり書けませんが、いずれフロイドのシュレーバー症例論などを取り上げて解説してみたいと思います。
第2の類型、外面如菩薩内面如夜叉のケースだと、乳児の受け取る心的な層は複雑な二律背反や面従腹背や、自己束縛にじぶんを引き込んだ上での反抗やといった複雑な心の振る舞い方を受け取る。そしてこの心性が限度を超えたら、世界と自己との溶融状態は、身体的表出の束縛と心的表出の奔騰との二重化、あるいは身体的表出の奔騰と心的表出の凝固との二重化としてあらわれ、わたしたちが社会的な規範あるいは心的な規範とかんがえているものからは理解を絶する極限のあらわれ方をすると述べています。こうした簡潔な叙述のなかに心的現象論に結晶した吉本の研鑽が凝縮してあらわれています。ほんとうにすごい。いずれゆっくり私たち凡才にも咀嚼できるように解きほぐします。それがおいらの役割だから。
第3の類型。あわただしくせかされ叱責される不安のなかで、早くおっぱいを吸ってよ!という感じで授乳する母親のもとで育つ子供。それは前アドレッセンス期以後にあらわれるすべてのj種類の拒食と過食の原型をなすと述べています。いくらおっぱいを吸っても心的な飢餓が癒されることがない。この心性が限界を超えれば、不可解な拒食と過食に陥る。しかし、母親の手が触れられる範囲の圏域線は保持されるため世界と自己との溶融状態は生起しないと述べています。わかりにくい言い方ですが、凡才的にいえばその母ちゃんは心から子供をうとましいとは思っていない、だから母親との触れ合いの範囲、そのあたたかさ、その圏域というものはまだ残っている。だからとことん病的である世界と自己の溶融というとこまで陥没しないということかと思います。
寄り道しないでもっとまじめに解説すればよかった。でもね、おれは寄り道大好きなんだよ。
ごめんね。