戦後世代の無軌道を批難して、もつともらしい渋面をつくつてゐる大人たち。君たちはあの無軌道が、仮令へ無意識な行為であつても、一つの自衛の本能(精神の破局に対する)から発してゐることを、よもや知らぬふりをすることは出来まい。何故、自衛せねばならないか。それは全ての思考と行為とが、ネガテイヴの内で行はれてゐるからだ。ポジテイヴを放棄したものにとつてすべてはネガテイヴだ。(風の章)

戦争に負けるまでは、日本人は軍国主義のもたらす情報やイデオロギーによってであれ、ポジティブではあったわけでしょう。社会に対して希望をもっていたわけです。この戦争に勝ちさえすれば、というような希望。みんなが社会を向いている、困難ではあっても、そこにはまだ希望がある気がするうちは。希望があれば、人々は社会に目を向け、政治に関心をもち、巨大なエネルギーを生み出します。熱狂する人々の歓声、巨大な集会、激論、ヒーローの登場。

しかしその希望が裏切られたとわかったら、潮が引くように熱狂は引いていきます。そして絶望が人々をおおい、ネガティブな精神になっていく。もう社会の動きを見るのも嫌であるし、政治なんか信じないし、いっさいの希望的な言辞を憎むようになります。

それでも若くて肉体のエネルギーは抑えきれないとすれば、そのはけ口は政治と真逆にあるもの、セックスとか暴力とかデカダンス、飲む打つ買うみたいなところに向かいます。それを戦後世代の無軌道と言っているのだと思います。いっぽうで若く無軌道な連中の側の言い分からすれば、社会に対して目を向けてポジティブに希望を抱いて何かを成し遂げたいと情熱をふくらませる年齢になったのに、この社会には絶望しかないじゃないか。そんな社会にしたのは前世代のおっさん連中ではないか。あんたたちがだらしないから、卑怯で騙されやすいから、こんな希望の見当たらない社会になり果てたんじゃないか。そんな社会で絶望で心身を凍えさせたくないから無軌道に暴れるしかない俺たちを「もっともらしい渋面をつくっている大人たち」。あんたたちは暴れるのをやめてどうしろというのか。正しい道を歩めと?その正しい道とやらが希望に続いているといまだに信じているのはあんたたちだけだよ、というような感じでしょう。これは何度も繰り返される世代間の葛藤です。

社会的に非難されている者たちの内面を捉える。そしてそこに時代の問題を視る。そういう生涯を通じてひん曲がらなかった吉本の状況をとらえる方法の萌芽がこのノートにあるといえるでしょう。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

オウムサリン事件というのはオウムの信者が地下鉄にサリンを撒いて、赤の他人を殺傷したわけです。信仰の教義や内容の問題を超えて現実化したところに衝撃があります。このオウムに直接に敵対する弁護士とか警察ではなく、無関係な市民を殺傷したということをどう捉えるか。すべての思想が試される大きな社会的な問題が発生したといえます。

当時のオウムサリン事件に対する評価は、ひとつはオウムの宗教性自体を否定するものです。あれは宗教を名乗っているが、本当は宗教ではなくテロ組織の偽装だ、とか、金儲けだけが動機の集団だとか、キチガイの教祖にだまされた世間知らずの若者が犯してしまった犯行だ、とか。あるいはオウムの宗教性は認めても、ヒューマニズムの観点から間違った宗教、ダメな宗教と非難するものです。あるいはオウムの宗教性にある鋭さや深さを認めても、その教義を現実化して人を殺傷したことは決して許されるものではなく、その点からオウムの宗教性を批判するといったものです。あとは人を殺傷した奴らに一切の理解を示す必要はない、さっさと死刑にしろ!という感情的な反応です。

1995年に起こったこの事件とその後の反響という、当時はジャーナリズムがそれ一色に染まったような騒ぎを覚えている方は多いでしょう。オウムを非難する言論一色だったと思います。誰もが麻原とオウムを非難することで、自分の正しさを確認した。

その渦のなかで、吉本だけが誰とも異なる見解を示しました。

吉本は浄土宗を除くすべての仏教は無差別殺人を正当化する論理を作りうるものだ、という衝撃的な発言をしました。では仏教以外の宗教はどうかということは語られていませんが、吉本は仏教だけでなく宗教一般を考察したうえで語っていると思います。

吉本はさらに衝撃的な見解を述べています。

「(前略)つまり麻原の極悪非道と宗教的な到達点と合わないじゃないかと言うけど、それも精神的な形式と精神的な内容と、両面にわたる解釈からいけばすこしも矛盾じゃないとおもいます。

 この境地でなければこれだけの「造悪」はできないはずだという評価になるとおもっているわけです。麻原のやった「造悪」と、この人のもっているヨーガの到達した境地と、パラレルだといいますがおなじだとおもいます。両方を合わせてこの人の信仰内容を解釈しないとだめじゃないかなと、ぼくはおもっています」(吉本隆明「宗教の最終のすがた」)

ここでいう造悪とはサリンによる殺傷ですから、吉本はサリンによる殺傷と麻原のヨーガの到達した「境地」とは切り離せないと言っているわけです。信仰の内容は高度かもしれないけれど、それを現実化したら他人を殺傷するような宗教(仏教)は認められない、という周囲の論議を否定して、現実化したら人を殺傷する、それが宗教(仏教)だと言っていることになります。

吉本は人を殺傷することはしかたがないとか、認められることだと言っているわけではありません。しかしこうした吉本の言論を断片的に知って、感情的に吉本に敵意を抱く人も多くいたでしょう。おまえはあんな酷いことをした麻原やオウムの宗教性を認めようと言ってるんだな!人を殺す境地ってどんな境地なんだよ!というように。

吉本はオウムサリン事件の問題を、吉本の思想のすべてをあげて取り組むべき本質論の土俵にもっていきたいわけです。そうしなければオウムサリン事件を解くことはできないと確信しています。そして解くことができなければ、時代に耐ええない言論をいくら繰り返しても、また同じ事件や問題が噴出してくるだけだ考えています。吉本の洞察によれば、麻原とオウムの生やしている根があるとすると、その根は深い。キチガイのオヤジと世間知らずのインテリ小僧たちが、背後から何者かに操られてしでかしたというような掬い方では、けして掬いきれない深さをもっている。この問題を根っこから根こそぎ掬いとり、本当の意味でけりをつけるには、宗教とは、仏教とは何かという本質論から掬い取らなければならないと吉本は考えたということです。そして宗教とは何かという問題は、吉本が生涯にわたって考察し続け幾多の論考を作り出した吉本思想の根幹にある領域の問題です。

ここで吉本が宗教の本質をどう考えてきたかという解説をしなくてはならないわけですが、まあ簡単にできることではありません。しかし精神病というものへの道筋をつけるためにも、この解説を避けるわけにはいきません。とりあえず「宗教の最終のすがた」という本のなかから「深さ」という概念を解説してみます。これは宗教の本質と関わる概念として述べられています。

吉本は「深さ」、それは精神の「深さ」ということですが、この概念を、これは仏教ではなくキリスト教ですが、マイスター・エックハルトというドイツ中世の神秘主義者の言葉から説明しています。エックハイトといっても誰も知らないような人ですから、吉本が「深さ」を感じたという「エックハルト説教集」から引用してみます。

「私がそこに見つけたのは、純粋な離脱はあらゆる徳を凌ぐということに他ならなかった。なぜならば、他のすべての徳が被造物に対して何らかの結びつきをもっているのに対して、離脱はあらゆる被造物から解き放されているからである」(エックハルト

まずはここまでで、どうですか?分かりますか、なに言ってんのか。わからないと思います。この「離脱」という特異な概念が分かりづらいからです。わたしもよくわからないわけですが、たぶんこの「離脱」というのは親鸞の「絶対他力」という概念に似ているように思います。そういう意味では仏教になじんだアジア人である私たちは理解しやすいかもしれません。また前に解説したシモーヌ・ヴェイユの独自の神学にもたいへん似たものがあると思います。「離脱」というのは自分を「無」にするというような意味でしょう。「被造物」というのは神が作った物という意味で、人間も含む森羅万象が神の創った物ですから、「離脱」はそれら森羅万象から自分を切り離した状態です。そんな特異な状態は、自分を意識的に無にしたような状態、意識を空白にした状態といえましょう。

「教師たちは、聖パウロがなしたように、愛を高く称えている。聖パウロは言う、「どんな行ないをわたしが為そうとも、愛がなければ無に等しい」(コリントの信徒への手紙)と。しかしわたしは、すべての愛にも増して離脱を称える。その理由の第一は、愛における最善のことが、神を愛するよう愛がわたしに強いることであるのに対して、離脱はわたしを愛するように神に強いるからである。わたしがわたし自身を強いて神へと到らせることよりも、わたしが神を強いてわたしに来たらせることの方が何倍もすばらしいことである。その理由は、わたしの側から神へと合一するよりは、神の側からの方がより強くわたしと結びつき、よりいっそうわたしと合一することができるからである。

離脱が神を強いてわたしに来たらせるということをわたしは次のことで証明する。すなわち、どんなものも、その本性にかなった固有の場とは一性であり純粋性である。この一性と純粋性とはまさに離脱に由来するからである。だからこそ神は離脱した心にみずからをどうしても与えずにはいられないのである」(「エックハルト説教集」岩波文庫

言っていることがよく分からないとしても、なんかここには通常の神とわたしとの信仰の関係からは、たいへん型破りなことが言われていることはわかります。あとはまた次回で。