○科学者とは、科学に没入し、次に否定し、次に肯定し、これを超克した人にのみ与へられる名称である 科学に没入したのみの人を科学者とは言ひ得ぬ それは泥と飯とを前に並べられて泥を撰ばずに飯を喰ふ小児をもつて栄養学者と言はれないのと同日である。(科学者の道)

科学にしても栄養学にしても知識の世界、知の世界ということですね。吉本は知の世界に没入していくんですけど、どうしても没入しきれないものがある。知の世界よりも現実の世界のほうが大きいと感じるんでしょうね。それは特別な現実じゃないんで、ごくありきたりの日常という現実のほうがあらゆる知の世界、あるいは表現の世界よりも大きいという感覚です。これは理屈で説明しきれるものじゃない、というか理屈で説明しきれたらそれは知の世界そのものですから。直感というしかない。

没入しても没入しても、触れえないものがありきたりの日常のなかにあると感じる心ですね。特別な生死の境とか、エロティシズムの極みとか、深い瞑想のなかとかではなく、普通の買い物とか育児とか会社仕事とかそういう平凡な日常に未踏の領域や謎や神秘を感じ取ります。だから平凡な生活圏をなめることはないし、嫌悪もしないし、知の側から支配できるとも思わないし、啓蒙し導く対象とも思わないし、極端に悲惨で退屈だとも思わないんだろうと思います。それが吉本にとっての知の外側にある日常、あるいは大衆の世界だと思います。

そんなところで吉本の分裂病の解説に移らせていただきます。「存在倫理」の概念の解説の続きです。

「存在倫理」とか「存在の倫理」という言い方で吉本が提起しているのは、現実の事態とか事件とかを判断する場合の倫理的な基準を、現在よりもっと根底的なところに移したいということです。吉本がこの概念を提起したのは、9.11のアメリカでの同時多発テロ事件のあとでした。しかし9.11の事件だけでなく現在のあらゆる事件に対する判断の問題として「存在倫理」は考えられています。

9.11のような国家間、あるいは国家とテロリスト間の衝突の事件でも、男が小学校に乱入して小学生を刺殺したという事件でもいいですが、そういう事件が起こったときどのように倫理的な判断を下すかが問われます。つまりブッシュとビンラディンどちらが悪いのか、とか、小学生を刺殺したのは悪いに違いないが、その犯人は精神病者なのか、あるいは正常な人間の計画的な犯行なのか、そんなふうに倫理的な判断が下される過程があります。吉本はそういう現在行われている倫理的な判断を批判しています。

たとえば9.11でいえば、アメリカとビンラディンイスラム原理主義者とはそれぞれ相手を否定していますが、吉本に言わせればそれは近代主義的な「迷妄」と、原始的な宗教的「迷妄」が戦っているだけだということになります。近代主義的なアメリカのような国民国家の指導者の倫理には、吉本にいわせれば国家の発展の段階論的な認識が欠けているということになりましょう。つまり自分たち欧米の国々でも段階をさかのぼれば、現在のイスラム教国や北朝鮮のような宗教的な独裁の状態を経てきたという認識がないということになります。そのぶん相手のイスラム国の状況が理解できない。我がこととして考えないからです。自分の国や民族も歴史的に体験してきて、今も近代的な社会のなかに残存している古代的な、あるいはアジア的な要素の問題としてあるというふうに我がこととして考えることができず、イスラム教国は遅れていて迷妄だという非難しか生まれないわけです。

いっぽうでイスラム原理主義の側は、イスラム教を守るために異教徒たちと戦うことを「聖戦(ジハード)」と呼び、聖戦で命を落としたイスラム教徒は天国に召されると信じています。吉本によれば、こうした人命よりも宗教的な行為に価値を置く考え方は原始的な宗教的な迷妄です。

9.11についてはアメリカ対イスラム教のテロリストという構図ではなく、アメリカの支配層の自作自演ではないかという考え方を私はしています。だから吉本の考え方をそのまま肯定するわけではありませんが、「存在倫理」という概念の説明としては意味のあることなので、吉本の述べるとおりに解説しました。

9.11を例にした吉本の説明では「存在倫理」の必要性は次のようになります。現在の社会の政治認識における倫理、社会認識における倫理、法認識における倫理など、人間を取り巻くさまざまな倫理的要因というものがあります。なにか事件が起こった時に倫理的な判断が下されるさまざまな基準があるということです。しかし、吉本はそうした倫理的な要因に基づく観点からは、国民国家が行う戦争は永久の
「善」であり、イスラム原理主義のような未開社会の時代と伝統的につながった宗教を信じるテロリストたちが行うテロは「悪の権化」であるという事実認識しか出てこないと確信すると述べています。つまり現在通用しているさまざまな倫理的な判断をかきあつめて考えても、近代主義的な国民国家の戦争を否定できないだろうということを言っています。

吉本がこの論議をしているのは「超『戦争論』(2002アスキーコミュニケーションズ)」という本のなかで、吉本の戦争論の結論として言われているわけです。吉本はこの本で同時多発テロ事件に登場したアメリカとイスラム原理主義戦争論、そして日本国内でそれに刺激されて出てきた小林よしのりをはじめとする様々な「戦争論」を批判しています。そして現状では戦争自体を根底的に無化できる思想はないと証明したんだと思います。戦争自体を根底から否定し無化できる思想はシモーヌ・ヴェイユの思想しかないと吉本は考えていると思います。そしてヴェイユの思想を根源で支える「匿名の領域」の思想から「存在倫理」の思想を提起しています。

国民国家という存在もまたけして恒久的な存在ではなく、過渡的な存在形態に過ぎません。そうした国民国家の特殊性に極限されたところから派生する政治的倫理、社会的倫理、法的倫理などは、すべて相対的なものにすぎないと吉本は述べています。だからそれとは違う根源的次元で論じなければならない。唯物論でも観念論でもない、人間存在の倫理を根底から問う「根底倫理」を必要とする時代に入ったとないかといいたいと吉本はいいます。つまりこの「根底倫理」あるいは「存在倫理」というのは、吉本が展開してきた社会や国家の歴史の思想の全重量をかけて、現状のもっともきわどい現実問題に向けて提起されている概念です。

今のままでは世の中で起こる犯罪や事件を解決するには、それこそ法律家と精神科医がいればいいということになってしまう。人間ってそんなに簡単なものなのかよ、って思っちゃうと吉本は言っています。では現行の法律や社会倫理という観点から論じる以外の根底的な論じ方とは何か。また次回で。