僕の存在は何かにむかつて無限の抑圧を感じてゐる。僕は、どうしてもそれを逃れることは出来ない。存在は外的な現実の歪みを感じてゐる。あの歪みのむかふ側に自由があるのだ。あの歪みは無数の観念の亡霊をその周辺に集めてゐる。るゐるゐたる屍体の群、血の抑圧、しかも一様に傷つきはてた者たちは僕のやうに困迷してゐる。僕はその突破口をすすんでゆかねばならない。(原理の照明)

これは具体的には何を言っているのが分かりにくいですね。無限の抑圧を若き吉本に感じさせている「何か」ってなに?よくわかんないけど、その「何か」は現実の歪みの中心、ブラックホールみたいな感じで、「無数の観念の亡霊」をその周辺に集めている。亡霊というんだから、もはや現実には対応できない時代遅れの観念が、その「何か」のおかげでふらふらと飛び回っているということでしょう。その「何か」の周りにはるいるいたる屍体の群れがあるってんでしょ。

たぶんこの「何か」は「天皇」だろうと私は思います。はっきりそう言わないのは、「天皇」個人の問題ではないからです。「天皇」という観念を成り立たせている日本の共同的な観念の全体の構造というようなものがあって、その共同観念を成り立たせている現実の構造というものがあって、それが「現実の歪み」ですから、それを視ちゃった者たちはるいるいたる死体の群れ、血の抑圧というような姿になって横たわっているんだけど、でも僕は突破口を進んでいくんだということでしょうね。実際、突破口は「共同幻想論」というような形で創りだされたわけです。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。「存在倫理」という概念の解説をしています。その続きです。

前回の解説は9.11の同時多発テロ事件後に吉本が「存在倫理」という概念を提出したわけで、それはアメリカとイスラム原理主義の双方の国家倫理と宗教倫理の対立の限界を超える「根底倫理」の試みだったというものでした。対立の限界という見解の背景として、吉本の「国家は宗教の最終形態である」という考察を解説しました。国家も宗教も共同の観念、吉本の概念では「共同幻想」です。観念性、幻想性が本質なので、国民や信者を殺しても共同観念を抹殺することはできません。共同観念、共同幻想には、出現の必然性と、消滅の必然性があって、その経路を踏まないで中途で消滅するということは原理的にはないわけです。だから国家も宗教もまだ共同幻想として根強く存在しえている現在においては、どのように対立し殺し合おうとも互いを抹殺することはできないし、また互いを罵り合っても、宗教と宗教の最終形態が対立しているという限界の内側にあるということになります。もし宗教が消滅するとしたら歴史的に共同幻想性が消滅する必然性に段階として踏み込んだということであって、それは同時に国家という共同幻想も消滅する段階を意味しているということになります。これほど透徹した9.11への思想的理解というものを吉本以外から聞くことは当時も今もできません。

ではその宗教や国家が消滅する必然性が登場する段階、現存する共同幻想の向こう側に水平線のようなものが見え、その水平線の向こう側というものがイメージとしてだけですが、鋭敏なものには感じ取れる、そんな段階はいつやってくるのでしょうか。吉本はもしかしたら、すでにそういう段階に少しだけ入り込んでいるんじゃないかと考えていたと思います。そのことが9.11だけでなく、阪神大震災オウム真理教事件、また東日本大震災原発事故などについての吉本の発言の背後のモチーフだったと思います。吉本には時代が根本的に変わっていくめやすとして現れた重要な天災や事件だというモチーフがあった。しかし世間は吉本の発言をめちゃめちゃに非難しました。それは今でもインターネットに過去の書き込みとして残っているからいくらでも読むことができます。吉本は人殺しの麻原をかばったとか、吉本は原発事故を容認しているだとかいったくだらない非難がいっぱいあふれています。そしてそれを契機に吉本から離れていった人たちも大勢いました。吉本は自分の発言がそうした結果を引き起こすことを覚悟のうえで発言したと思います。それくらい個としての信念を公的に発言するということは厳しいことです。この個として、厳しい孤立を支払っても真実と思えることを発言する「勇気」が吉本が残していった偉大なものだと思います。

さてその問題、時代が新しい段階に入ったのではないかという吉本の考察がビビッドにというか、迷いながらも勇気をもって発言する姿勢があらわれている著作は「宗教の最終のすがた(1996年 春秋社)」だと思います。この私の解説のモチーフは吉本の分裂病の理解について解説するというもので、全然関係ない話をしてるじゃないかと思っているかもしれませんが、大丈夫、大きく回ってブーメランのように話は戻ってきますから。分裂病統合失調症)の現代的な現れ方の根底に何があるかという考察の前提として、吉本の新しい段階に社会が入りかけたという見識や、「存在倫理」が登場するという考察が必要になります。

「宗教の最終のすがた」という本は芹沢俊介が聞き手になるインタビューのような対談のような本ですが、この本の話題の中心は阪神大震災オウム真理教事件です。このふたつの出来事は1995年に起こっています。突如としてこの年に西の天災と東の人災が起こったことになります。今からもう22年も前になります。十代の人たちは情報としてしかしらない出来事ですね。9.11の事件は2001年に起こっています。阪神大震災、オウムのサリン事件の6年後です。吉本はずっと自分のモチーフを深化させながら、社会の出来事を追い、それに対する考察を単独で公的に発言し続けたことがわかります。

「宗教の最終のすがた」の冒頭に「西の天災と東の人災」という文章があって、そこに吉本のモチーフが簡潔に述べられています。まずそこから解説します。

1995年にはオウムと阪神大震災だけでなく、不況で銀行や信用組合が解体しかかったりして10年分の出来事がいっきに起こった印象がある。それは「震災前・震災後」という言葉で精神的にまるでちがってしまったという言い方にあらわれる。1995年という年はそれほどひとつの時代の転換が始まった年という意味を持っていると吉本は考えています。吉本も20世紀のあいだぐらいは、それまでのさまざまな価値観、〈善悪〉の基準、社会・経済的な枠組みというものが平穏無事にもつと思っていたと書いています。しかし突如その崩壊が始まった、ついに来たという感じなんでしょう。

そこで阪神大震災についてもオウムのサリン事件についても、それが時代の転換の象徴であるという観点から発言しなくてはならないと吉本は考えます。解明されていない新しい段階が姿を現しつつある。同時に今までの価値観は崩壊しつつある。そのなかで今までの崩壊しつつある価値観に基づいて考えたり発言したりしては大きく間違ってしまうと吉本は考えています。ここが阪神とオウムの出来事に対する見解の分かれ目になっていきます。これは今までのものが壊れはじめて、なにか新しいものが生まれようとする問題として起こっているんだと感じるか、今までどうりの価値観を信じて、その価値観の内部で判断し発言していくかの分かれ目です。

吉本がここが時代の転換点だと感じた背景には、吉本の辛抱強い勉強の蓄積からくる経済社会の把握があります。吉本は主観性とか党派性を排除できる経済学の方法として産業経済学を重視して社会経済の分析を行ってきました。すると産業経済学が教えるところによると、現在の日本のような先進国の社会経済は第3次産業が社会の中心になった状況だということになります。また所得のうち50パーセント以上が消費に向けられる状況だということになります。これらは客観的なデータであって党派性や主観性の入る余地はありません。吉本は自然科学的に経済を扱える産業経済学が客観的に社会の将来像を描きだすことができると述べています。

するとそれは「消費資本主義」という段階へ入ったことだと吉本は述べています。その消費が5割を超える資本主義、あるいは高度資本主義というのは何か。それは資本主義と呼ぶしか名前がないから消費資本主義とか高度資本主義とか言っているだけで、もはや資本主義とはいえない得体のしれない経済社会の段階なんだと吉本は考えています。

この消費資本主義段階に入ったということが、当然ながら社会の変化となって社会に生きる人々の価値観に影響を与えます。それは社会の表面にはなかなか現れずに、水面下の異和感や疑問としてどろどろ渦巻いている状態から始まります。その今までの価値観や『善悪』の基準がだれからも潜在的には疑われてあぶなくなってきていることのひとつのラディカルな現れだと吉本はオウムの事件を捉えています。そこから在来の価値観を否定するオウムや麻原彰晃の宗教倫理が登場します。吉本はこの対立を包括できる根底的な倫理が必要だと述べています。これは9.11に対する見解と共通しています。オウム、阪神大震災の年にもっと包括的な倫理が必要だと述べたその根底倫理が9.11後に「存在倫理」として提起されたということです。

消費資本主義段階の特徴は経済的にいうともうひとつあって、それは「価格」がその物本来の価値と関係なく浮遊しだしているということだと吉本は述べます。この「浮遊現象」は、所得の半分以上が個人が使っている消費であるという消費社会の特徴からやってくると吉本は考えます。そして価格が物の本来の価値から関係なく浮遊しだしているということは、『善悪』の基準も本体から離れて、なにが『善』でなにが『悪』なのかわからなくなっていることにつながると吉本は考えます。ここが経済性と観念性をつないで考察する吉本の特徴があらわれます。

「存在倫理」に至る吉本の考察を掘り下げて、そこから分裂病をはじめとする精神病の問題へつなげていきたいと思います。