放浪と規律。僕はこの両極に精神を迷はせてゐる。刻々と僕が人生における一つの岐路に近づいてゐるといふひとつの予感が、僕を一層不安の方へつれてゆく。僕は放棄すべきなのだ、一切の由因を。この国の芸術家達が一様に悩み抜いた分裂が僕の心をも又占めはじめてゐる。恐らくこれは僕の負ふべき僕のゐる精神と社会との風土が負ふべきものなのだらう。だが僕はそれを逃れることは出来ない。人間は環境を必然として受入れることの外に、何もなし得ないから。この国は悪魔の国だ。しかも意地の悪い、卑小な悪魔のゐる国なのだ。(〈夕ぐれと夜の言葉〉

なにを言っているのかよくわかりません。昔この文章を読んだとき、感銘を受けたのは自分の悩みを自分の責任ではなく自分のいる風土の責任だと考えているところでした。すべてを自分の肩に背負わせてはならない、ということですね。自分だけが背負うと風土、つまり自分の属する社会や共同の幻想性への批判の糸口がないからです。自分の苦しみは、この悪魔の国、意地の悪い、卑小な悪魔のいる国のせいだ、そう考えるわけです。そういう転換ができないと内向的な資質の人は自滅してしまいます。

「一切の由因を放棄すべきだ」という文章は意味がわかりません。「この国の芸術家達が一様に悩みぬいた分裂」というのもよくわからない。わからないんですが、たぶんこれは風土、環境、社会といった共同体への徹底した批判をはじめなくてはならないところに吉本が進みつつあるということじゃないかなと思います。自分の内面の問題を、自分の内面に関わる因果関係だけで解釈することをやめよう、というのが「一切の由因を放棄する」という言葉の意味じゃないかという気がします。内面の問題を内面だけで解決しようとするのが、アジアの一国である日本の芸術家の習性になっている。しかし世界的な戦争に敗北した今こそ、歴史的な現実である客観的な社会とか共同体とか国家というものから内面の問題を捉える方法を確立するべき時ではないか。そういうことを「悩みぬいた分裂」という言葉で言っているんじゃないかと思います。どうでしょうかね。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移ります。

吉本は麻原彰晃をヨーガの修行者として大きく評価するという日本中を敵に回すようなことを公言しています。これによって吉本から離れた読者も多かったと思います。しかしこの吉本の麻原評価の問題には、吉本の思想的な全重量がかかっていることは間違いありません。吉本は確信をもって麻原を評価しているし、覚悟をもってそのことを公言しているわけです。だから吉本の思想的解説もここを避けて通ることはできません。

吉本の麻原評価の原点といえるのは、『「生死を超える」は面白い』という文章です。(「親鸞復興」1995春秋社)「生死を超える」というのは麻原彰晃の著書の題名です。吉本は未知の人からこの本を贈られて読んでみたと書いています。そして非常に興味をひかれたということです。なにが吉本の興味をひいたかというと、麻原の記述しているヨーガの修行者としての内的な経験が、とても如実で微細で、これほど鮮明なイメージを与えるヨーガの修行の本を読んだことがないと述べています。

「生死を超える」は一般に「臨死体験」と呼ばれている瀕死の体験と同じものをヨーガの修行で作り出し、その内的な体験を記述しています。吉本は臨死体験に興味をもっています。なぜ吉本が臨死体験に興味をもっているかというと、臨死体験と呼ばれるものがひとつには人間の成育史における言葉の獲得以前の段階、乳胎児期、幼児期への探索の意味があるからです。もうひとつは人類史における言語獲得の以前の時期、いわゆる未開、原始の時期の内面性への探索の意味があるからです。さらにそれが同時に、これからの社会の高次映像の問題ともつながるからです。だから吉本はキューブラー・ロスなどの臨死体験の記述を熱心に読んできました。しかしそれらの本の記述には「どれも布きれ一枚を隔てたようなぼんやりしたあいまいさ」がつきまとっていると述べています。吉本によれば、麻原のヨーガ修行の記述はその布きれ一枚を取り去った鮮明な細部の体験イメージが描かれているということです。

「生死を超える」は臨死体験の記述から「死」の内的な記述に移ります。そして「死後の世界」への移行の記述になります。そして最後に死後の世界から「転生」して、再び人間界に戻ってきたり動物界に行ったり地獄に堕ちたりするということを述べています。つまり「生死を超える」という本は「死と転生のプロセス」を麻原の修行体験の記述によって描いた本です。吉本によれば、この麻原の本の意義は浄土教以前にあった仏教各派の修行が何をやっていたのかを明瞭にわからせてくれるところにあります。つまり昔から仏教とかヨーガの修行というのは、こういう「死と転生のプロセス」を内的に経験することを目指した行われていたということです。そういうふうに仏教というものがわかるということです。

そしてこうした修行をすることで、どのような認識に達するのか。吉本は麻原自身が述べているその認識をさらに「普通の人間」つまり信仰者、修行者でない一般人にも通用する言い方で言い換えています。

「①死後の世界の存在のイメージが作れる。

 ②転生のイメージを子宮にとび込むまでつなげられる。

 ③功徳(よいカルマ)と修行以外には、死後の世界のイメージをよくできる手だてがない。

 ④死後の世界の存在というイメージを放棄しないかぎり、功徳と修行以外に人間のすることは何もない。

 ⑤死後の世界の存在というイメージを確信するかぎり、現世は幻影と感ずるのは当然だといえる。

 ⑥死後の解脱に最高の価値を与えるかぎり、ほかのことに執着がなくなるのもまた当然だ。(『「生死を超える」は面白い』吉本隆明 より)」

これが吉本が言いかえた麻原の修行を経てたどり着いた認識の要約です。これは吉本によれば、浄土宗以前の仏教者がたどりついた認識と同型だということになります。ということは浄土宗、つまり親鸞だけは別物だと吉本が考えているということです。そしてこの要約は仏教だけでなく宗教一般にも通用する認識だとみなしてもよいように思います。

②の転生のイメージを子宮にとび込むまでつなげられる、という部分は説明が必要でしょう。麻原はヨーガの修練によって臨死の体験のイメージ、死後の体験のイメ
ジ、そこから子宮や卵子のなかに入り込んで人間界に再び転生したというイメージを、連続したプロセスとして描いています。吉本によれば、この連続したイメージを生み出したことが、生と死を超えた永生という理念を作る根拠になっています。麻原によれば死後の世界に行ったあと、魂はじぶんにあった世界へとび込んで行く。とび込んで落下してゆくとたいていの場合性交のヴィジョンがみえ、無意識にそこにとび込んでしまう。すると落ちてとまったところが子宮であったり卵子のなかであったりする。それが人間界への転生だと述べています。

吉本はもうひとつ興味深いことを書いています。麻原が記述している肉体や感覚の体験は、分裂病者が無意識の強迫から作り出している体感や感覚異常の体験の世界を積極的に自在に作ることができていることを意味しているのではないか、と吉本は述べています。つまり分裂病者が強いられて生み出している異常性の世界は、ヨーガの修行者が自己コントロールしながら生み出している幻想性と同じものではないかということです。吉本は分裂病の「異常性」とみなされているものを、もっと普遍的なイメージ体験の世界へつなげてみたいと思っているということです。やっと分裂病と今までの解説の接点が出てきたわけです。

サリン事件との関連性を考えると、ヨーガ修行によって到達する認識の問題は重要です。仏教というものは、生死を超えた永生という理念をもっています。ひとりの人間の魂は死んだらおしまいではない。それは転生して人間に生まれ変わったり動物に生まれ変わったりする。つまり「生まれ変わり」が信じられています。この「生まれ変わる」輪廻の繰り返しから「解脱」して仏さまの世界のような光の世界のようなところに行くことが仏教の目的ということになるんでしょう。詳しくは知りませんが。

この生まれ変わりとか転生とか永生というものは、現在の私たちにはとても信じられるものではありませんが、こうしたもののなかに信じようが信じまいが、修行者、宗教者であろうがそれ以外の普通の人であろうが、隔てなく普遍的に体験されるイメージがあるかどうかが問題となります。もし臨死体験というものが、そのような普遍的な体験であって、ただそれを体験した人はたいてい死んでしまうから伝わらないわけですが、少数の臨死体験から生還した人の記述というものがあるわけです。それは信仰とかと無関係に死に瀕した人を不可避的にやってくる臨死体験のイメージがあると思わされます。吉本が手に入れたいのは、この誰にでも普遍的に通用する普遍性としてのイメージ体験です。そこから言語以前の乳幼児期や原始未開の時代の理解の手掛かりが得られますし、また分裂病者の理解への手掛かりも得られるからです。