自覚における自己写像は任意的である。つまり任意的なものだけが自己形成に関与する。人間の自由とは原理的に(つまり抽象的に)語られる限り、この自己写像の任意性といふことに帰着する。(形而上学ニツイテノNOTE)

これは昔読んでよく分からなかった箇所ですが、今読んでも分からないですね。自己写像っていう概念が分からないわけですよ。人間はたえず心も体も動いていますよね。絶え間なく何らかの活動状態にあるわけで、そのすべてを把握することはできません。絶え間なく活動している自分の状態から取捨選択して自己のイメージを作り上げる。俺ってこんなふうに生きている、という。そういうのを自己写像といっているのかな、と思います。その取捨選択した自己のイメージに意味を与えるのが自覚だと考える。こんなふうに生きている俺はこういう意味をもった人間だ、という。俺はいいやつ、とか俺はずるいやつとか。しかし絶え間なく活動している自分から取捨選択する自己イメージも、その自己イメージに意味づけする自覚も、任意的なものだということです。つまりなんらかの方法をもって自分をイメージ化したり自覚したりするわけではない。適当といえば適当にやっているわけで、あるいは自由にやっているともいえます。だから人間の精神の根底にあるものが、自分が自分であるという自覚だとすると、その自覚は自己写像の任意性という自由さと切り離せない。人間の精神の自由というものは、自分を自分と思う思い方の自由さに支えられている、とそんな感じでしょうか。あなたどう思います?

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

吉本がオウムサリン事件と阪神淡路大震災を題材にして追求したいのは普遍的倫理という概念です。その普遍的倫理とは何かというテーマに関連して、精神の「深さ」という概念が提出されます。そしてその「深さ」の見本というか具体例として、エックハルトというカトリックの中世ドイツの神秘主義者の説教を吉本は示しています。今回はその続きを解説したいと思います。

「深さ」の具体例として吉本があげているのはエックハルト以外では「ヨブ記」の注釈をしているキルケゴール杉本五郎です。杉本五郎は軍人で「大義」という著書があるそうです。わたしは読んだことがありません。これらの人に吉本がなぜ精神の「深さ」を感じるのか。それはエックハルトの説教でいうと、エックハルトは聖書の一節を取り上げて説教をするわけですが、その取り上げる聖書の言葉よりもエックハルトの言葉のほうが「深い」と吉本には感じられるということです。同様に、キルケゴールの注釈の言葉のほうが「ヨブ記」よりも「深い」。また杉本五郎天皇に対する信仰の言葉のほうが、天皇自体よりも「深い」と感じられるということです。

吉本はこうした「深さ」を戦争中の自分自身の戦争死を考えざるをえない状況で感じ取ったようです。20歳で戦争に行って死ななければならないということをどうしたら納得できるか。そこまで追い詰められて、戦争の理由は親兄弟のためとか恋人のためとか、国土のためとか故郷の人びとのためとかいろいろあるけれど、それは相対的な理由に過ぎなかったと吉本は述べています。自分の戦争死と引き換えにするほどの理由にはなりえなかった。そして絶対的なものを吉本は求めます。自分の予定された死と引き換えにできるほどの絶対的なもの、それは天皇という現人神(あらひとがみ)しかなかった。この神聖にして侵すべからざる天皇のためなら自分は死ねるんだと思えた。そういう宗教理念と似たものをもたなければいられなかった、といっています。

この戦争という社会状況から追い詰められて天皇の絶対視に至る精神は、敗戦によっていっきに叩き伏せられます。すると天皇に対しての絶対視も失われることになります。「なんてばかばかしいことを信じていたんだろう」と吉本だけでなく、日本中の多くの人たちが思ったでしょう。しかし信じていたことを疑うことはできないし、それをごまかすこともできない、と吉本は考えます。その自己欺瞞を嫌う精神からオウムに関する鋭い考察が導かれます。吉本は自分の天皇崇拝だった過去からオウム信者の麻原崇拝を類推して、信仰の内部にあるときは一種の絶対観念をもっていて、その絶対観念を充たすもの、絶対観念に耐えるだけの「深さ」のあるものを求めているといっています。それは信仰の対象である天皇や麻原が人格的にどうあろうと人間的にどうあろうと問題ではない。欠点をあげつらえばいくらでもあるし、それは麻原でも天皇でもいくらでもある。そういう人格的な問題とは別次元で麻原や天皇を神だと設定して救済される精神内容というものはある。それは宗教の問題、信と不信の問題だと吉本は述べています。

そうすると麻原の何がオウム信者の絶対観念を充たしたのか、その絶対性を求める渇望に耐ええたのか、ということになりましょう。吉本はこういっています。

「ただ、麻原という人のばあい、内面的に、とくに主たるお弟子さんにたいしてどういう精神作用をどこの境地までもっていかせたとか、有効な手助けをちゃんとしている。体に触ったとか頭に触れたというだけでそれをやったという、それだとおもいます。それだけは残りますね。ぼくはそれが深いとおもいますね」(「宗教の最終のすがた」吉本隆明

つまり信じる側にその時代、その状況によって絶対的なものを求める渇望というものが想定されます。吉本の時代の若者であれば戦争が絶対的に帰依できるものを求めさせたわけです。では今の時代の絶対への渇望とは何でしょうか。

それは「欠如」の問題からではなく出てくる倫理、善悪の基準というものが渇望されていると吉本は考えているとおもいます。世の中が豊かになって餓えるという問題がおおむね解決された。それに伴って「欠如」というものを土台にした倫理性が時代遅れになってきたということです。

ちょっとその問題は置いておいて、ひととおりまとめたいわけですが、信じる側に新たなる時代の渇望があると、その絶対感情の受け皿になるものはもはや左翼ではないということです。左翼、つまりマルクス主義唯物論は、「欠如」があるから力があった。しかし左翼の敵であった資本主義が「欠如」の問題を、少なくとも社会主義の国家よりも解決してしまった状況で、もはや左翼は倫理性の集中点になりえないことになります。

だとすると新しい渇望を充たすものは個我の精神的な「深さ」というものしかありえない。それは宗教が充たすことができるだけです。

その「深さ」というものは新興宗教の教祖のなかにそれぞれなんらかの形であるだとうということを認めなければならないんじゃないでしょうか。なんとか馬鹿にして、詐欺師や色情狂やキチガイということにして見下しておしまいにしたいわけですが、ではなんで多くの人間、若い優秀な人間も信者になっていくのかという問題が解けません。じゃあ信者になっていく連中もついでに馬鹿にして、世間知らずで指示待ち世代でというように見下しておしまいにしたい。しかしそれならなんでこんなに世間が騒いでいるんだ?という疑問になります。天皇が死にそうになった時のように世間が騒いでいる。メディアが取り上げ続けている。それこそがこの事件が衝撃を与えていることの証拠だと吉本は言っています。

中途半端ですが、また次回で。