青春は例外なく不潔である。人は自らの悲しみを純化するに時間をかけねばならない。(原理の照明)

不潔というのはお風呂に入らないというようなことではなく、昔風の言い方ですが自分の内面を誇張したり美化したり劇化したりしがちだというようなことですね。青年がある経験をしてある感情、たとえば悲しみを抱いたとしても、それを表現するのに大げさに嘆いてみたり、逆に知らんふりをしてみたり、余計な観念をくっつけてみたりするというようなことでしょう。要するに青臭くてめんどくさい奴をイメージすればいいんじゃないでしょうか。だけどもそこには純粋素朴な悲しみというものが秘められているわけです。そのリアルな悲しみが照れくさかったり、カッコ悪いと思ったり、自分ひとりだけが世界の中で悲しみを感じているんだと思いこんでいたり、悲しみなんて弱さだと嫌悪してみたり、いろいろな自意識のドタバタを演じている状態を青春と呼んでいるんだと思います。それは時間が洗い流して純化してくれた本来の身の丈の悲しさからくらべれば余計なものがいっぱい付いた「不潔」な内面だということになります。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

1995年に阪神淡路大震災オウム真理教地下鉄サリン事件が同時に起きました。吉本はその時までに、現在の資本主義社会が消費資本主義と呼ぶべき新しい段階に入ったという認識を手に入れていました。消費資本主義というのは所得、個人所得であっても法人所得であっても、所得の50%以上が消費に使われる社会ということを意味します。吉本は消費資本主義に入った段階ということを大変な時代の転換だとみなしています。ここが大きな時代の変わり目で、戦争や革命という目に見える変化ではなくいつのまにか世の中が変わっていたという変化なので捉えにくいわけですが、吉本は産業経済学を用いれば、その転換が明瞭にわかると述べています。

消費資本主義という未知の段階にいつのまにか入り込んだ社会は、その水面下にドロドロした葛藤を潜ませています。それは社会がいつのまにか大きく変わってしまったために、それまで通用していた社会観や倫理観がなんとなくもう通用しなくなっています。しかしそれに代わる新たな認識は登場していません。あるいは登場し始めた新しい認識があっても、まだ社会的な評価を受けていないので「変わった考え」としかみなされません。そういうどう考えたらいいのかわからない、あるいはこれまでの考え方で通そうと思っても通らないストレスが社会の水面下に蓄積されているということです。

その葛藤、ストレスというドロドロしたものがいっきに噴出した感じがするのが阪神大震災サリン事件だったと吉本は述べています。大震災は天災だからストレスが噴き出たというのはおかしいですが、この大都市の日常を突如破壊して多くの死傷者を出した大天災というものを倫理的にどう考えたらいいか、ということとこれからどのように復興を考えていったら新しい社会に適応した都市になるかという課題が、消費資本主義への転換期の問題として登場したということになりましょう。

吉本は10年分の事件がいっきに起こったようだと言っています。だから吉本にとって、阪神大震災サリン事件を論じることは、消費資本主義段階に突入した社会がどのような文化的な変化を起こしていくかを読み解くことです。また吉本は消費資本主義段階を資本主義の末期の姿としてとらえていて、もはや資本主義とも呼べない得体のしれない社会だと考えています。それは資本主義の老熟、末期であるとともに、その向こうにやってくる新しい社会の予感を含んでいる社会段階であるとも考えていると思います。資本主義の水平線の向こうから姿をあらわしかけている新しい社会や新しい文化の影のようなもの、それをここでつかめるだけはつかんでおかないと、それはただ今までの社会観や倫理観で新しさの萌芽を埋めてしまったということにしかならない。それで済むわけではなく、時代は否が応でも進んでいくわけだから、時代の転換は同じような課題や事件をこれから何度でも引き起こしていくだろう。今ちゃんと考えを公表しておかないと、間に合わなくなる、後手後手にまわって、ただ時代の転換に流されてしまって、それに対して思想的なあるいは実践的な対処ができなくなると吉本は考えていると思います。

吉本は不思議な人です。吉本は政府の要人でもないし、国の研究機関の研究者でもない、政党の指導者でもない。ただの民間の文筆業者、物書きです。そんな庶民が自分がやらなければこの社会は新しい兆候に対して対応ができなくなると本気で考え、本気で発言しています。しかし吉本は思想の浸透力というものを信じていますし、100万人がある方向に行くのを望見しても自分が納得しないなら一人別の方向へ歩むという思想の公言の自由を確保するために、権力にもあらゆる組織にも属さない一庶民でいるのだと思います。しかも本当に世間の善悪の基準に逆らって物を言えば、その庶民社会からも孤立し、石をもって追われる羽目になります。サリン事件への発言でも、原発についての発言でも、これまでに何度も吉本は自分がそのなかに埋もれたいと願っている庶民社会から石を投げられてきました。

さて吉本がサリン事件について行った発言を解説して、吉本の真意というものを追求してみたいと思います。「宗教の最終のすがた」という著書(インタビュー)のなかで吉本はもの凄いことを言っています。これが言論的に袋叩きにあった言説の核心だと思いますし、他のどんな文筆業者も学者も宗教家も言う可能性のない特別の言説です。

「もっとも極端なケースを想定すると、たとえば裁判の場面で、麻原彰晃がこんな発言をしたらどうなるか。“よろしい、刑には服そう。しかし、たとえ法律の次元でなんと言われようと、われわれの宗教的な世界観というのはこういうものである。そこでかくかくしかじかの理念にもとづけば、こういうことは一見悪にみえてもじつは悪ではない。救済のひとつのかたちなのだ、云々。”もし、公の場で揺るぎない確信をもってそれが語られたなら、つまりそれだけの幅が彼にあったとするなら、あの人はキリストになってしまうんですよ。つまり「新約聖書」の説話パターンとおなじ展開になってしまうんです」

「いや、麻原がもしちゃんとした人だったら、やっぱりどこかで言うとおもうんです。つまり、市民社会の〈善悪〉の次元でなにか言ってもらったら困ると。それにたいしてじぶんは服する。死んだっていい。だが、おれたちの思想はそうじゃないんだと。一見、無差別殺人にみえるけど、これはじぶんたちが大きな善に至るひとつの過程としてやむをえずそうなったんだみたいなことを言ったら、そうとうすごいとおもいますけどね。ただ、ぼくらはそう言ってくれなんておもいませんが。そうやったら、なんらかの意味でキリストとおなじように生き残りますよ。つまり復活しますね。そこまでやりきれるか、そうじゃないかという分かれ目じゃないでしょうか」(吉本隆明「宗教の最終のすがた」

これはもの凄い公的な発言であると思います。今これを読んで石を投げたくなった人もいると思います。サリン事件は死んだ人も怪我をした人も後遺症に苦しんでいる被害者が大勢いる。そのなかで麻原がキリストになる可能性があるだと?というわけでしょう。当時も多くの非難が寄せられたと思いますし、これをきっかけに吉本との交際を絶った文化人も幾人もいました。

だからこの言葉は吉本思想をどう捉えるかの分岐点になるものです。キリシタンの踏み絵みたいなもので、この発言を泥足で踏みつけることができるなら許されるけど、踏むことをためらえば同じように非難されるか、あるいは吉本の言うことならなんでも信じる吉本信者みたいなことを言われるわけです。しかし吉本ほどの信頼すべき業績のある思想家の発現にはその真意を探求するべきだと私は思います。だから踏み絵を踏まずに考えることにします。

さらに吉本は、先ほどの発言がキリスト教徒に衝撃を与えたとすると、今度は仏教徒に衝撃を与えるだろうもの凄い発言を行っています。

「極端なことをいえば、麻原彰晃のやったことをすべて否定しようとするなら、日本の仏教のなかで存在を許されるのは、浄土教、つまり法然親鸞系統の教義しかないことになります。それ以外の坊さんたちが依って立つ教義は、みんなオウム真理教同様、無差別殺戮を正当化するために論理を生み出せるんです。それをはっきり批判したのは、法然親鸞だけだといっていいです」(吉本隆明「宗教の最終のすがた」)

浄土宗以外、たとえば禅宗でも日蓮宗でも真言宗でも新興宗教でも、その教義はみんな無差別殺戮を正当化するために論理を生み出せる、と言っています。震え上がるようなもの凄い言論ですね。こんなことを言ったのは吉本だけです。

なぜ無差別殺戮を正当化できるかというと、吉本は仏教と死との関係の特殊さを指摘します。仏教徒にとって死は問題にならないと吉本は言います。それどころか仏教の修行者たちは、ヨーガや意識の集中によって幻覚を創出し、見仏の体験を得たり、死や死後の世界のイメージを体現しようと努力してきました。空海最澄もそういうことをやったと吉本は述べています。

「中世の宗教家たちもさかんに死のイメージを美化して、断食したり厳しい修行に身を投じたりして、どんどん浄土のほうに突入していこうとしました。人間の死をなんともおもわない、むしろそこに親しみを感じて引きよせられていくという傾きは、仏教の歴史のなかにいくらでも見いだせるのです。麻原彰晃はそういう仏教のもつ危険さを、白日のもとに明瞭に晒してしまった。現代の仏教家はこれにたいして、きっちりと反論したり、弁明したりしなければウソだと思いますね。

法然親鸞が画期的だったのは、仏教的な修行によって得られる死のイメージを幻覚にすぎないものとして退け、戒律や出家の概念も解体し、在家の身分で、ただ一心に念仏をとなえれば浄土にいける、善行や修行はむしろ往生の妨げになる、ということを説いた点でした。この考えをつきつめていった親鸞は『善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや』、善人が浄土に行けるのだから、悪人はなおさらいけるんだという『悪人正機説』に到達していきます。(吉本隆明「宗教の最終のすがた」)

これらのもの凄い発言には、吉本の宗教についての膨大な考察のすべてが凝縮しているといえます。吉本は間違いなく思想的な生命を賭けて、こうした発言を非難と孤立を覚悟して行ったと思います。こうした言説の真意を解説して、時代の大いなる転換という問題に踏み込んでみたいと思います。そのなかに精神病の理解の変化という課題もあるはずです。