僕は度々正義の味方になることを強制せられた。だが僕には常に一つの抑制があつて、正義といふような曖昧なものに与することを願はなかつた。それはひとつの知心とも言ふべきもので、僕が何を欲するかといふことを通じて、人間が如何なるものかを知らうとする心があつた。そして最も主要なるものは最もかくされてゐることを信じてゐた。(科学者の道)

ここで正義というものを曖昧なものと思わず正義の味方になってしまうとどうなるのか。それは「正義」という共同的な理念の陰に、自分の個人の心が隠れてしまうことになると思います。だから「自分が何を欲するか」とか、「人間が如何なるものか」というようなことはよく知ることができなくなってしまうでしょう。吉本に「正義」というようなものが曖昧なものだと教え、「最も主要なるものは最もかくされている」という「星の王子様」のキツネのような言葉を教えたのは「文学」だと思います。戦中戦後の共同理念の脅威と変転の時代に吉本が「一つの抑制」をもって耐え、思考を中断させなかったのは「文学」が個にこだわることの価値を教えたからだと思います。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。「存在倫理」という概念について解説しています。

「存在倫理」という概念を吉本が提起したのは、現在に流通しているさまざまな倫理を批判して、より根底的な「根底倫理」を提起するという意図からでした。「存在倫理」が提起されたのは9.11の同時多発テロ事件を契機としていました。9.11はアメリカという民族国家とイスラム原理主義の政治集団との対立だとされていました。その真偽は置くとして、9.11は民族国家と宗教の対立とみなされたということになります。アメリカという民族国家の倫理である国家の倫理と、イスラム原理主義の宗教の倫理とが互いを悪と呼んで対立し殺し合う、そういう世界状況だとされていたわけです。

国家と宗教については吉本は思想的原則がありますのでそれを解説します。それは「国家は宗教の最終形態である」というものです。吉本はヘーゲルマルクスの系統から宗教、法、国家についての関連を学んでいます。宗教が法になり、法が国家になるということです。したがって国家は宗教の最終形態だということになります。国家と宗教が対立することは、本質的にいえば宗教と宗教の最終形態が対立することで、いわば宗教が宗教と対立しているにすぎないと吉本は考えます。

9.11以後の吉本の著作「『ならずもの国家』異論」(2004光文社)から、この吉本の思想的原則を解説してみます。国家より法より古くから宗教はあります。未開や古代の時代から宗教はあるわけですが、吉本は宗教がだんだんに形を変えて現代にいたる、その変わり方にはふたつあると言っています。

第一は呪術的な宗教がだんだんに変わって、掟のような法になります。それがさらに国家だけにしか通用しない国法とか憲法になります。つまり宗教から法へ、法から国家へ、です。そういうふうに変わり、最後はいまの民族国家になります。だからいまの民族国家は宗教の最後の形だといえると吉本は述べています。

もうひとつの宗教の変わり方はかたちを変えない場合です。宗教のままでとどまります。それは伝統的な宗教そのもので現在でも残っています。キリスト教イスラム教が現在でも残っているように宗教そのものとして残っている場合です。

ではキリスト教イスラム教は古代からまったく変化していないのかというとそんなことはありません。宗教は長い時間のなかで少しずつ変化し、発展の段階をたどっています。吉本によればイスラム教とキリスト教はどこが違うかといったら、ほとんどちがいがないと言っています。また東洋的な宗教は自然と絡み合って汎神的なのに対し、西欧の宗教は一神教で、ここに差があるなどという学者がいるが、そんなことはないので、ただ段階の違いがあるだけだと述べています。

宗教が最終形態である国家になると、やがて宗教が分離して宗教は宗教、国家は国家と別々になる段階がやってきます。アメリカは民族国家にしてプロテスタントで、ほぼ分離しています。これに対して東洋は仏教やイスラム教が多いわけですが、国家とかなりくっついていて独立しがたいという特徴があります。それが東洋の特徴で、西欧のように国家と宗教がほぼ分離しているほうが発達の段階が進んでいるといえると吉本は述べています。日本は東洋の国としては分離しているほうだといえます。

原則的にいうと、呪術的未開の宗教が民族国家まで発達してかたちを変え宗教になったもの(国家)と、キリスト教みたいにかたちを変えずに宗教のままであるもの(宗教そのもの)、このふたつしかないと吉本は述べます。

これが吉本の宗教と国家についての思想的原則です。国家と国家、あるいは宗教と宗教、また国家と宗教が対立しあうという事態は常に起こりうることです。そこで問題になるのは国家と宗教の強固さです。たとえば中国政府がダライ・ラマ十四世をインチキ宗教として弾圧する、あるいは法輪功という気功団体をつぶそうとする。しかしダライ・ラマ法輪功も中国政府の大弾圧をもってしてもつぶせない強固さをもっています。この宗教の強固さは吉本によれば、国家の強固さと同じなんです。どちらも本質的に宗教だからです。中国政府がダライ・ラマチベット仏教を弾圧するのは、宗教の発達形態の最終形態である民族国家が、宗教の大昔からの形態を保っているチベット仏教をつぶそうとするもので、それは初めから無理、原理的に無理だと吉本は述べています。もしもダライ・ラマをつぶすつもりなら、中国共産党自身が先につぶれなくてはいけないと吉本はいいます。法輪功にしても同じことだと。

つまり宗教というものがもしなくなる歴史の段階がくるなら、それは国家がなくなるのと同じことだと吉本は考えています。宗教が国家と分離していようといまいと、宗教が壊れるときは、国家も世界的に壊れて失われるときと同じだということです。

だから中国政府に限った問題ではないので、9.11のアメリカ政府がイスラム原理主義をつぶそうとしても、爆撃で信仰している人々を殺すことはできるでしょうが、観念としてのイスラム教という古代からの宗教をつぶすことはできない。もしイスラム教がつぶれることがあれば、それはアメリカという国家がつぶれる歴史段階とともにやってくるということになります。

しかし民族国家というものもまだまだ大変に強固です。産業が発達し、どんどん国際的になって国境を無化してしまいそうなのに、国家は国益を主張して強固な壁を作っています。この強固さは宗教の歴史がもつ強固さと同じものだと吉本はみなしているということです。

話を戻しますと、9・11などで現象する国家と宗教の対立は、宗教のままで残存している宗教の倫理と、最終形態の民族国家まで発展した宗教の倫理が対立しているのだということになります。そしてそれはどちらかがつぶれるという決着はありえない。ともに強固に宗教が存在する段階の対立だからだということになります。ということはこの倫理的対立のどちらに組することもできないということです。それは宗教と宗教の対立だから、迷妄と迷妄の対立といってもいい。国家と宗教がともに持つ宗教性の外側に足が掛かる、国家や宗教の倫理性を包括できる倫理が存在しないと9.11のような問題に根底的な倫理的な判断をもつことができません。

「存在倫理」という根底的な倫理の提起は、人類の歴史そのものといってもいい宗教の未開の形態から、最終形態である現在の民族国家群までの歴史を対象的に扱えるような思想を必要としています。それは宗教や国家がやがては歴史的に終わっていくものだという透徹した歴史的見通しでもあると思います。宗教や国家がいつかは終わっていくその境界の向こうというものと、「存在倫理」とはつながっています。いってみれば「存在倫理」というものが姿をあらわす度合いは、宗教と国家が終わりの兆候を見せ始める度合いとみあっているということだと思います。