若し我々が存在するならば存在の周囲には一つの精神の集中があると考へられる。この集中は規定される以前のものであり、存在の一つの確証に外ならないとされる。(〈虚無について〉)

この初期ノートの部分は「虚無について」という短い章の一部です。この章は私が考えるには、後年「心的現象論序説」で展開した「原生的疎外」や「純粋疎外」という心的現象の根底のありかたを考えた概念につながっていくものです。詳しく解説していくと「母型論」の解説ができないので簡単に説明しますが、この疎外という概念は今回の「母型論」の解説に大きく関わるものなので覚えておいていただきたいと思います。
この初期ノートの「虚無について」の章では、上に書かれているように「存在」の周囲にあると考えられる「精神の集中」を「虚無」と名づけています。吉本はさらにその「精神の集中」の周囲には必ずひとつの「真空」があると書いています。「絶対の真空を周辺に持つところの集中された精神が虚無である」というわけです。そして「真空」とは個性であるというわけですが、それは個人が所有する特性という通念としての「個性」ではなく、「個人の所有する場」であると書いています。そして「我々は虚無にあって何ものをも創造せず、何ものをも定義せず、何ものをも救わない」と書いています。
このめんどくさい考察は何を言おうとしているのか。それは通常は心というものを、心の内容というところで済ましているわけですが、それでは飽き足らずそもそも心があるということの根底まで考えたいということだと思います。根底の根底に「個性の場」であるところの「真空」があり、そのなかに「精神の集中」である「虚無」がある。「虚無」に取り巻かれるように「存在」がある。「存在」が通常考えられる個人の心の世界でしょう。こうした考え方はフロイトの思想の影響なしには考えられません。吉本は自分の言葉で考えたくて「虚無」とか「真空」といった概念を編み出していますが、次第にその文学的な概念では飽き足らなくなっていくのだと思います。そして後年に結晶した「心的現象論序説」では、おそらくこの「虚無」は「純粋疎外」に、「真空」は「原生的疎外」の概念へと変容していったと考えます。
簡単に説明しますと、「原生的疎外」というのは、まず根底的に考えて無機物のなかに生命という有機物が存在したことによって、その生命は周囲の無機物との間に「異和」をもつとするわけです。この「異和」がひとつの領域を形成するのが「原生的疎外」です。おおざっぱに言ってますからいろいろなニュアンスをすっとばしてますが、ご不満な方は原本をお読みください。そんで「原生的疎外」は有機的生命体の内側からやってくるものと、無機的物質の環界からやってくるものとの錯合として形成されているわけです。いわば「原生的疎外」は生命が無機物のなかにあるということ自体が生み出す根源的な心的領域の「場」であるわけです。それは初期ノートで若き吉本が作り出した「真空」という概念と関連性があると考えます。
では「純粋疎外」はなんだというと、「原生的疎外」という「場」の内側で「原生的疎外」が「ベクトル変容」したものだと吉本は書いています。「純粋疎外」は「原生的疎外を心的現象が可能性をもちうる心的領域だとすれば、純粋疎外の心的領域は、心的現象がそれ自体として存在する‘かのような’領域であるということができる(「心的現象論序説」)」ということです。
これ以上の詳しい解説は別の機会に行うとしてですね、もうひとつ重要なことに触れたいと思います。それは吉本が「疎外」という概念を「疎外の打消し」という概念とともにあるものだと考えていることです。吉本は「原生的疎外」をフロイトの思想と結びつけて、これを「生の欲動」、それは広義の性衝動であるということですが、フロイトの「死の欲動タナトス)」という概念を原生的疎外の打ち消しという概念で考えています。無機物のなかから生命がなぜか生まれ、その生命のもつ根源的な「異和」が根底的な疎外だとすると、その「疎外」は生命であるという「異和」を打ち消し、無機物に戻ろうという「疎外の打ち消し」とともにあるという考え方です。この考えは私が考えるにはこれから解説する「母型論」のなかの言語論に貫かれています。
では「母型論」の残りの部分にシロクロつけましょう。理解しやすいようにまず今までの解説を要約しようとすると、その要約だけで文章の大半が終わってしまうことにわたくしやっと気がつきまして、もうそれは省いていきなり続きを書いていこうと思います。
鉄器と米作という当時の最先端の知識と技術をもって、どこからか(吉本の考察では中国や朝鮮の大陸から)やってきた種族があり、そのなかに天皇の一族となっていく集団もいたのだと思います。かれらを新日本人と呼べば、新日本人が日本列島に移住してくる以前に日本列島に住んでいた種族がいた。その先住民を旧日本人と呼べばかれらもまたどこからか移住してきたのかもしれません(吉本の想像では東南アジア大陸から島々を渡ってやってきた)。天皇一族が先住の旧日本人を征服して初期国家を作り出してからが「アジア的段階」ですから、日本列島の先住民こそは日本の「アフリカ的段階」を生きていた人たちだということになります。日本人のもっとも初源の「アフリカ的段階」の文化や言語は、日本列島の端っこである琉球沖縄や東北北海道に痕跡が色濃く残っていると考えられます。それは新日本人との融合が少なかったため「アフリカ的段階」が長く続いたという理由です。
では旧日本人の言語という問題を「母型論」の「起源論」から解説してみます。日本の端っこということは逆にいえばロシアや中国や朝鮮や東南アジアの大陸への先端です。さて端っこのひとつである琉球沖縄に残る文献から吉本は、琉球沖縄と本土との融合の過程を、三母音の種族語と八母音の種族語の融合の過程としてとらえています。
ところで今の日本語は五母音だとされています。「あいうえお」(aiueo)です。八母音というのはなんなんだということですが、橋本進吉という有名な言語学者がいますが、その人の学説で「上代特殊仮名遣い」というものがあります。上代というのは奈良時代頃のことだそうですが、その頃の日本語は八母音だったというものです。これには異論もあって、やっぱり五母音でいいのだという学説もあるようです。わたしもよくわかりませんので、八母音として展開している吉本の考察を追っていきます。
ここでは琉球語を取り上げていますが、吉本によればもう一つの端っこである東北語・アイヌ語にも共通する特性がみられるということです。それはアフリカ的段階の言語がアジア的段階の言語と融合する過程の共通性だと思います。
吉本は例をたくさん取り上げていますが、ここではちょっとだけにとどめます。ご不満な方は原本へ。まずカ行音のようなめりはりの利いた語音は、その前の語音によっては琉球沖縄や東北語のような旧日本語の因子が数多く残っている言葉では、発音することが不可能に近かったという指摘があります。カ行が言えないわけです。江戸っ子が「ヒ」が言えずに「シ」と言ってしまう。「ひばち」を「しばち」というという感じですね。
たとえば、本土語で「ミキ(神酒)miki」という言葉がありますが、これはK音です。カ行音ですね。「キ」の部分が。このカ行音が琉球語では言えないのでS行音になります。
本土語「ミキ」→琉球語「ミシィ」となります。
また本土語「キク(聞く)kiku」は琉球語では「シィクン」となります。
カ行音のようなめりはりの利いた語音が言えないので、摩擦音で表出したり、濁音でつぶしてしまたりして表出するよりほかなかったのではないか、と吉本は書いています。その理由はさだかではないが、アフリカ的段階の言語では天然自然の音声を音韻化する過程が徹底していなかったために、自然音と言語の音韻の中間の状態がより多く保存されることになった、と吉本は考えているわけです。
旧日本人がアフリカ的段階での言語を使っているなかに、本土の新日本人のアジア的段階の言語が到来した。それを自分たちが言える形で変容させたわけですが、これは私たち現在の日本人が西欧の言語を取り込んで使っていることとも共通していると思います。西欧の語音には日本人が発音しがたいものがあり、それを日本風西欧語に変えて使っているわけです。同様にアフリカ的段階風のアジア的段階の言語というものが生まれたのでしょう。
吉本の考察では、こうして同じ対象物に対して言語が変容するということの根底には、ある意味をもった言葉がどんな語音をもつかは偶然そうなったというほかに根拠をもたぬ恣意性とふかくかかわっている、ということになります。つまり言語は偶然性、恣意性によっていかなる名づけ方もありえるということです。
アフリカ的段階は自然と人間の心をはっきり区分できない段階です。自然にまみれて生きているということです。だから自然音(風の音とか川の音とか)を言語とはっきり区分できていないわけです。すると自然音と言語の音韻の「中間状態」というものが保存されます。これがこれから使う「中間状態」の意味になります。吉本は琉球語では母音の三角(a.i.o)はその中間状態というべきものと、それに対応する中間状態の子音の系列とはバリエーションをつくりだすようになった、と考察しています。わかりにくいので具体的に吉本の例証を追ってみます。
まず「かげ(蔭)」という本土語は「カギ」という琉球語になり、さらに「カギ」は「カイ」という琉球語に変容しているという例をあげています。
これは「かげkage」の「e」が三母音にないので言えないから「kagi」にしてしまったのだと思います。「gi」はさらに「イ(i)」になりますが、これを吉本は「音の脱落」の例としてあげているわけです。「音が脱落」して、たとえば本土語「うまれ(生まれ)」は琉球語で「ウマリ」になりさらに「マリ」になります。また本土語「ミヤラ(宮良)」は琉球語で「メーラ」に「音を脱落」させます。もうひとつ琉球語の重要な特性として、N音(ん)の音が使われることがあります。これを吉本は「N音縮退」と呼んでいます。
たとえば本土語「くも(雲)」は琉球語では「フム」になり、さらに「ンム」になります。わかりにくかもしれませんが、最初の「ン」は小文字です。はっきり「ン」というのではなく、くちごもったように「ン」という感じだと思います。
同様に本土語「シリ(尻)」は琉球語では「チビ」になり、さらに「ンビ」というように「N音縮退」をします。また本土語「いね(稲)」は琉球語で「イニ」になり、「ンニ」になります。
こうした琉球語の特性を例証しているなかで吉本が考察していることで重要なことは、琉球語が本土語へ、つまりアフリカ的段階がアジア的段階へ、古い段階が当時の最先端の段階とが融合するときに、古い段階へ戻ろうという力が働いているという考察です。言語の起源の段階からより進化した段階へ移っていこうという力と、同時に起源の段階へ、さらに言語の起源以前の前言語あるいは無言語の段階へ戻っていこうという力も同時に働いているのだということです。これは冒頭で解説した「疎外」と「疎外の打ち消し」という概念につながっているとわたしは考えます。
吉本は音声や自然現象の音が言語の音韻として固定しようとする傾向にいつも抗おうとする音素上の特性、と書いています。この特性のために「音が脱落」し、さらに脱落して「N音縮退」をするということになります。吉本はこの「N音縮退」つまり「ん」の音を琉球語や東北語のたいへん興味深い特徴とみなしています。「N音」つまり「ん」の音は、吉本の直観によれば、言語というよりも言語以前のものなんですよ。つまり(aio)の三母音より以前の言語、無言語ありは「乳幼児期の内語」があらわれたもの、あるいはその内語の世界へ分節化されていく言語を引っ張り戻そうとする力能があらわれたもの、つまりは「疎外の打ち消し」が発動したものといえるのだと思います。
どこかで吉本は科学というものは不可逆に進化するものだが、人の心は一方通行で進化するとは限らない、元に戻ろうとしたり停滞したりするものだと述べています。科学や文明はもとには戻らないが、政治体制は独裁制になったり宗教的になったり、科学者たちがオウム真理教に引き寄せられたりすることがありうるということでしょう。原発問題でも吉本が単独で主張したように科学的な進歩とその結果生じる文明は不可逆なものだという吉本の化学者としての思想があります。しかし文化といいますか、人のこころの問題はそれとは違うものだということです。その思想もこの言語が元に戻ろうとする力能をもっているという考察につながっていると思います。
新しい言語は新しい時代、知識と技術の進化にともなって変化する新しい時代に対応する言語として登場します。新しい言語を使うことは時代の進展を取り込んでいくことです。そうして新しい言語に対応していきたいという欲動と、それに抗って言語の初源の状態に戻ろうという力能がともにこころのなかにあるということになります。未来を見通すことと、初源の歴史を掘り下げることが同じ方法の表裏なんだという吉本の方法は、こうした「疎外の打ち消し」の概念と関連しているのではないかと私は思います。
さてかなりおおざっぱな解説でしたが、「母型論」の「起源論」のうち、旧日本人の言語の特徴、つまりアフリカ的段階の日本人の言語の痕跡を琉球語に探すという部分はこれで終了します。繰り返しますが、三母音であった段階の琉球が八母音(あるいは五母音)の本土の言語と融合する過程で、「音の脱落」やさらに「N音縮退」がみられるということです。
「母型論」は次に琉球語ともうひとつの日本列島の端っこである東北語(さらにはアイヌ語語)の共通性を考えるという問題意識に移ります。この部分は「起源論」の末尾にあたるとともに、次の章である「脱音現象論」へとまたがっていくものです。それらを踏まえて「母型論」の最後の章である「原了解論」があります。これは「心的現象論 本論」の一部であり、長年の吉本の日本古典論の蓄積がこもった論考です。「原了解論」では琉球の「おもろそうし」や「万葉集」をテキストにして、初期文芸論でもあり「母型論」の延長でもある考察が行われています。吉本の労作である「初期歌謡論」とも関連するものです。それをもって「母型論」は終わります。