すべての「個」にとって、黄金時代が少年期から青年期の初葉にあるように、わたしの黄金時代は、戦争と、それを前後にはさんだ僅かの時期にあつた。しかし、戦争の終結は、強引にこの黄金時代に亀裂をつくつたということができる。(過去についての自註)

ここで吉本が黄金時代といっているのは、アドレッセンスつまり思春期のことだと思います。それは少年期から青年期の初葉だということです。徳永英明の「壊れかけのラジオ」のように「♪思春期に少年から大人に変わる〜」という時期です。そのアドレッセンスに敗戦が亀裂を作ったと述べています。敗戦の昭和20年に吉本は21歳でした。この年に吉本は米沢高等工業高校から東京工業大学電気化学科に進学しています。敗戦の8月15日の前に、富山県魚津市の日本カーバイト向上に学徒動員で働きに行っていました。そこで天皇終戦のラジオ放送を聞いたわけです。そこでアドレッセンスが終わりはじめたのだと思います。どこかで吉本が書いていましたが、「敗戦がおとなにしてくれた」ということになります。では黄金時代あるいはアドレッセンスというのは何か。どういう点で他の時期と違うと吉本は考えているのでしょうか。
吉本がアドレッセンスの時期から追求している問題はさまざまにありますが、根本的なところだと私が思っているのは、アドレッセンスにおける少年の成長ということを教育学とか児童心理学とか一般的には「発達」ととらえるわけですが、吉本は「発達」ととらえることはできないと考えていることです。「子供はぜーんぶわかってる」(2005 批評社)という本がありますが、吉本は子供の心的な世界は幼児のときにすでにできてしまっていると考えています。それは完全にできあがっているとみなしています。だから未完成なものが完成に向かうという「発達」という概念を批判するわけです。それではいわゆる「発達」とみなされる少年期青年期の心的世界の変化は何なのかというと、吉本はすでに完全にできあがっている自分の心的な世界に、どこまで対象的になれるか、自分で自分のこころをどれだけ取り出せるかということの進行だと考えています。さらに青年期と少年期をわけるとすれば、青年期になったときは、どこまで自分の心の世界を一般性として対象化できるかどうかという問題になるとみなしています。この自分のこころをどこまで普遍性のある形でとりだせるか、ということは「表出」とか「疎外」という概念で呼ぶこともできます。この問題は文学の問題、そして文学の価値としての言葉の価値の問題に普遍化して考えることができるものです。
吉本が敗戦に衝撃を受けたのは、この社会あるいは世界のとらえ方が自分なりにつきつめたと思っていたのに、外側からそれが誤りだったと突きつけられたということだったと思います。だから戦後の吉本の格闘は、この世界をどうとらえるか、客観性というか科学性というか普遍性というかそういう一般性のある世界観をどう作るかということに向けられました。それは自分のこころを対象化して取り出すということは、文学青年としてかなりの深さでおこなっていた吉本が本格的な青年期に、つまり自分のこころの世界を世界普遍性にまでつなげていくという格闘の人生の始まりだったということでしょう。
ここらで「母型論」の解説に移らせていただきます。「母型論」の「起源論」の解説として赤ん坊が言語を獲得する時期の問題、「あわわ言葉」から最初の母音体系として三母音が登場するという部分の解説を前回しました。そしてこの赤ん坊の言語の獲得の時期の問題を、人類が言語を獲得する時期の問題に置き換えて考えていきます。しかしこの後の言語の発達過程は各民族の民族語に分化していきます。それぞれの民族語で異なる過程を経ていくわけです。そこで吉本はこの三母音以降の言語獲得の問題を日本語の問題として限定して考察していくことになります。
そこでもっとも古い日本語の問題というところに入っていきます。それを具体的に追う前に、全体的に問題を整理してみたいと思います。
吉本は「時‐空性の指向変容」という概念を提出しています。この概念のもとはヘーゲルにあると思いますが、「指向変容」という言葉は吉本の造語になります。これはどういう概念かというと、以前にも何度か解説しましたが、あらゆる時間性つまり歴史段階というものは、あらゆる地域的空間に置き換えて考えることができるということです。逆にあらゆる地域的空間というものはあらゆる歴史的な段階に置き換えることができます。またあらゆる世界的な共時性というものは、あらゆる世界的な特殊性というものに相互転換できるということになります。たとえばアフリカという地域的空間は単に地域的な場所をあらわしているだけでなく、同時にアジア的段階の以前に存在した原始・未開の時代、吉本が「アフリカ的段階」と名づけた時期に、ある関係の構造を介してですが、置き換えて考えることができるということになります。また逆に「アジア的段階」という歴史段階は、たとえば日本の江戸時代までの地域的な空間に「指向変容」させて考えることができるということになります。いつもそうですが吉本が造語するのは、吉本の独自の思想的な内容を盛り込んでいるということです。時‐空性を変容させるための「関係の構造」という吉本の思想をくみ取ってもらいたいがゆえに造語しているということです。
「世界的な共時性は世界的な特殊性と相互転換できる」というのは、吉本には「南島論」という琉球沖縄に関する一連の論考があるわけですが、たとえば沖縄の問題を辺境の問題というだけでとらえるのは片手落ちであるということです。同様に第三世界のさまざまな地域の問題を単に辺境の問題とみなすのは間違いだということになります。そしてその辺境とみなした認識に、左翼的な倫理観やイデオロギーを接ぎ木した「第三世界革命論」のようなものも間違いだと吉本は批判しています。たとえば沖縄の問題は「母型論」とも密接に関わりますが、日本列島の習俗や言語のもっとも古いものが残っている地域です。この習俗や言語の古型は歴史段階に「指向変容」させて考えれば、日本列島に大和朝廷が誕生する以前の日本と日本人のありかたを示しています。だとすれば琉球沖縄とは単に地域的な辺境、すなわち世界的な特殊性の地域であり、民俗学的な古い習俗言語の宝庫であるということにとどまらず、「指向変容」という吉本の概念を理解しているならば、同時に世界の現在の先端的な文明や問題、つまり世界の共時性である世界史的な現在に光を当てることができる、つまり共時性のなかに登場できる地域なのだということになります。
こうしたことが「時‐空性の指向変容」の概念になりますが、そこにもうひとつにんげんの個体の心身の成長の問題(発達とは言わないよ)の問題も、吉本の思想の「関係の構造」を介して、「指向変容」させることができるのではないかと思います。吉本はそういうふうには書いていないわけですが、そう考えるとわたしにはわかりやすいです。胎児から乳幼児、思春期から青年期、成人期から老年期そしておっちんでしまうという人の個の人生も、吉本の思想の「関係の構造」を介してですが、あらゆる時間の、つまり歴史の、そしてあらゆる空間の、つまり世界の問題に相互変換して考えることができる。そして個の心身の成長過程における逸脱である精神病や障害の問題も「指向変容」させて、歴史や地域の問題に関わらせることができると吉本はみなしているとわたしは考えます。
すると何がどうなるんだ、ということになりますが、せっかちに言っちゃうみたいですが、それはあらゆるにんげんが胎児から始まるんだという意味で、あらゆるにんげんを歴史の起源である「アフリカ的段階」に関わらせることになると思います。またその歴史段階の起源は「指向変容」させることでさまざまな世界的な地域の特殊性と共時性に関わらせることができるということになります。それでどうなるんだというと、あなたやわたしである「大衆」というものの根拠が深まるんだと思います。だからこれは吉本が政治思想として提出した「大衆の原像」という、これも造語ですが、その概念の深化にあたります。最初に書いた「子供はぜーんぶわかってる」という幼児のときにこころは完成しているんだという考察を「指向変容」させて人類の起源と関わらせるならば、人類も「アフリカ的段階」のころの未開人、同時に世界の現在の地域特殊性としても遺伝的に残っているわけですが、その未開人も「ぜーんぶわかってる」ことになりましょう。そしてその未開人が「わかっている」ものが価値として累積したものが言語の価値であり、それが吉本が「自己表出性」と名づけた言語価値だということになります。わたしたちが言語を深く使おうとして表現の世界に惹きつけられるのは、再び「ぜーんぶわかり」たいという欲求だともいうことができます。ただ未開人は自然にまみれ無意識として「ぜーんぶわかってる」ことを私たちは世界共時性として意識として取り出したいということが違うわけです。それは人類が青年期に入った(あるいはとっくに入ってもう老年期?)ということにもなります。
話を戻して、三母音という世界普遍性の段階から各民族語に多様に分化していく時期の問題を、吉本はおおざっぱにいえば重要視していないわけだと思います。なぜ分化していくか、ということは興味深い問題ですが、その根底には「言語の生成にまつわる偶然性」という根源的な問題があります。それを解説してみます。どういうことかというと、たとえば日本語で「花」のことを「パナ」というようにP音でもっとも古い段階では呼んだらしいですが、そもそもなぜ「パナ」と呼ぶようになったのか、すこしも根拠はないと吉本は述べています。「パナ」じゃなくて「ポナ」でも「パラ」でもかまわないわけでしょう。なぜ「ぱ」と「な」の結合なのか、根拠がない。あなたが「兄」でわたしが「弟」だとして、なぜ先に生れた男を「アニ」と呼ぶのか、根拠がないわけです。このことを吉本は「大洋論」の「大洋」のイメージで説明しています。言語の獲得以前の乳幼児のこころを大きな海原とイメージするとして、その波はひとつは感覚器官からくる指示性の前言語の、たとえばたて波だ。また内臓系からやってくる自己表出性の前言語の波を、たとえばよこ波とする。そのたて波とよこ波が大海原でうねって、ぶつかりあって波頭を作る。その波頭がどうできるかはまったくの偶然だ。その波頭でたとえば「パナ」ができ、「アニ」ができると考えれば、その偶然性が言語生成の根源的な偶然性のイメージになる、そう吉本は述べています。吉本によると、「人間の存在にまつわる偶然性のうちで、この言語の生成発達の偶然性よりも根源的な偶然性はありえない。そしてこの根源的な偶然性は宿命と呼んでもいいものだ」ということになります。
すると三母音という人類の身体構造の共通性に根ざした普遍性が、各民族語へと多種多様に分化していく言語のありかたは偶然にそうなったということでしょうか。たしかに根源的にはそうだというしかないと吉本は考えているように思います。しかしほかの要因がないとはいえないわけです。ここから「母型論」と生物学者角田忠信の研究がからんでいきます。日本人とポリネシア人だけが母音を言語脳で聴くという角田忠信の研究は、日本人とポリネシア人という特殊地域性の事象として取り上げていますが、これを吉本の思想を介した「指向変容」として考えると、この言語的な地域特殊性の特徴は、歴史段階における分節化される前の言語獲得の段階に遡行して対応させることができます。またそれは乳幼児における「あわわ言葉」から三母音体系までの分節化される前の言語の段階に「指向変容(わたしが勝手に呼んでいますが)」させることできるといえると思います。
個体の心身の成長というものと「時‐空性の指向変容」とを関連づけることでの、大きな問題点は精神病をどのように人類の歴史と空間に結びつけるかという問題です。吉本は精神病の理解として非常に重要で興味深いことをいっています。それは現在精神異常といわれている、特に精神分裂症(統合失調症)に関連して、「原始未開の時代の心はどういうふうになっていたか、その心の働きはどういうふうになっていたか、その心の働きはどのように外界を理解していたか、どういう言葉づかいをしていたのか、それにも関わらず、どうして通じていたのかという問題ん解き方と、分裂病の理解を主体とする精神病の解き方は大変よく関連しているに違いない」と述べています。ここに個体の心身のありかたと世界の時空の連環をつなぐ吉本の大きな思想的な枠組みがあるとわたしは思います。