政治経済学 若し社会変革といふことが人類の理想であり得ないならば、我々は概的に経済現象を法則化するところの理論経済学だけで充分であり、敢てポリテイカルな経済学を必要とせずに、未知の経済現象を解明することができる。(断想Ⅲ)

この初期ノートの部分が書かれたのは1950年頃のようです。その頃と現在の経済構造はまるで違うと思います。なによりマネー経済が膨大化したことです。物やサービスの生産による実体経済の規模をはるかに超える規模の貨幣だけが回るマネー経済が世界を動き回り、土石流のように新興国の経済を破壊したりするようになりました。このマネー経済のうねりはある意味で国家を超えるものですが、このマネー経済を統御しようとする動きは国家権力による政治だと思います。現在その政治は、為替や金利や株式・債権・不動産証券・商品先物相場などの政治権力による操作、副島隆彦のいう「官制相場」として経済を操縦しようとする動きだと思います。日銀が紙幣を膨大に印刷して日本国債を引き受け、そのことによって株式の高騰と債権の金利低下を導く現在のアベノミクスという政治は、政治による相場、すなわち経済の操縦であり、またはたして操縦しきれるのかという問題でもあると考えます。だから社会変革の課題がないならば未知の経済現象が理論経済学だけで解ける、という若き日の吉本の考察は現在ではまったく通用しないんですよ。それは中国のような共産党が政治権力で経済をコントロールするあり方を、経済の分析だけで解くことはできないのと同じです。
このへんで「母型論」の解説にさくさくと移ります。なんか解説を急ぎすぎちゃって、もっといろいろ解説しなければいけないことがあると悔やまれるんですが、年末でもあるし、とにかく「母型論」の最後までやっつけてしまおうと思います。
それにしてもひとつだけ付け加えたいと思います。「日本人はどこから来たか」問題で、吉本は旧日本人、あるいは日本の先住民の痕跡が琉球沖縄、吉本のいう「南島」と、東北北海道に残っているといっています。ではその先住民はどこから来たかというと、風習、言語、神話、祭儀、婚姻などの痕跡を辿ると、東南アジアの大陸から沿岸部や島々をわたって日本列島にきたのではないかと考えている、と書きましたが、これにはいろいろ必要な解説をすっとばしているわけです。そのすっとばした解説のうち重要なものと思うことをつけくわえます。吉本によると神話からこの問題にアプローチしようとすると、琉球王国が編纂した「おもろそうし」などだけではなく「古事記」や「日本書紀」などの大和朝廷が編纂した最古の書物にも、東南アジアから渡ってきたとみなされる神話の類型がみつかります。このことにも解説すべきことがあって、神話というのは幻想ですから、つまり目に視えない意識内容ですから、神話の内容がどこから来たかという問題とその種族がどこからやって来たかという問題は同一とは限らないわけです。Gm遺伝子を研究して「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱している松本秀雄という学者の説が、もし正しいとして先住日本人が北方からやってきたのだとしても、琉球沖縄にやってきた種族はほかにもいろいろあるわけだから幻想としての神話が南方系であることもありうるのかもしれません。
それともうひとつ重要なことがあります。「古事記」や「日本書紀」に大和朝廷の神話の起源として琉球沖縄に共通する南方系の神話があるとします。するとどういうことになるのか。大和朝廷、つまり統一国家としての初期王権が起源を南方系にもつということになるのか、という問題です。ここが吉本の「南島論」のかなめなんですが、先住民の統一国家を作るにはいたらなかった社会、あるいは群小の国家群(豪族の群れのような)社会に、天皇族がどこから来たのか確定できませんがやってきて征服して統一国家を作った。そうして支配した共同体というものは、それ以前に存在した支配された共同体の観念や土台的な核になっている構造を自らの共同体あるいは国家の権力構造のなかに摂り入れていくということです。あるいは横からかっぱらうといいますか、まるで最初から支配的な共同体の所有であったかのようにみせかけるということになります。わかります?つまり天皇族はそれ以前に先住民として日本列島の全体に分布していた連中、縄文人といってもいいでしょうが、そういう人たちがもっていた神話とか伝承とか信仰とか祭儀とか婚姻形態とかを、それはもともと天皇族のものであったんだよとみせかけるということになります。すると先住民の人々はそれに感化され、自分たちと支配層の人たちは同一の起源や核をもつものなんだ、あの人たちと自分たちは一体なんだと勘違いしていくということです。そうすれば支配しやすくなるからです。その勘違いの根を絶やすというのが吉本の「南島論」のモチーフです。
だから天皇族の王権が南方系の神話を自らの起源として記述した、ということは先住民の神話が南方系であったものを摂取したんだと考えられます。だとすれば依然として先住民の起源が南方からわたってきた人々ではないかという仮定は成り立ちます。しかしそれはまだ確定のできない事柄であるようです。
それでは本題である「母型論」の残りの解説に入ります。「起源論」の最後に述べられているのは琉球沖縄と東北の言語の共通性です。つまり先住民が日本列島全土に分布して、そこに後住民がやってきます。そのなかになのか、それとは別個の経路なのか確定できませんが天皇族も日本列島の統一支配者として登場してきます。後住民は稲作と鉄器という当時の先端技術を日本列島にもたらしました。そして先住民と後住民は混血し文化は融和していきます。しかし列島の北と南の端っこ、つまり琉球や九州の西南部と東北北海道にはその混血と融和が届かずに先住民の痕跡が残されているということになります。だから琉球語と東北語に共通性がみられるという理由がそこにあります。また「起源論」の次の「脱音現象論」も、このテーマの続きです。だからそこまでいっしょにして解説していきます。
「起源論」の最後に「琉球、東北語の共通音」という章があります。たとえば「鮨(スシ)という本土の言葉は東北語では「シィシィ」のような語音になります。ズーズー弁と呼ばれるものをイメージしてください。この場合「鮨」は「su∫i」です。そして「シィシィ」は「sisi」ですがこの「i」は上に「・・」が乗るような表記でパソコンで出せないんです。
また「月 tsuki」は琉球語では「チィキィ」のようになります。この「チィキィ」も「tsitsi」
ですが、この「i」もまた上に「・・」が乗る表記になります。わかりにくくてすいません。
ということはどういうことかというと、母音「u」と母音「i」とが、子音をあいだにはさんで前後しているとき、uとiの中間音ともいうべき変母音「i(に・・が上に乗った表記)」になることがある、ということになります。「鮨」も「月」もuとiにはさまれた子音が変母音「iに・・がついたやつ(あーめんどくさい・・)」に変わっているということです。同様にeの音も中間変母音「u(の上に・・が付く)」に変わります。これらはつまりは五母音(あるいは八母音)であったものが三母音のほうに引っ張られたということになります。
琉球語と東北語の土台になっているのは日本列島の先住民の言語です。それは日本のアフリカ的段階の言語だと考えられます。ここで思い出していただきたいわけですが、「母型論」は胎児、乳幼児の言語、つまり内コミュニケーションも「あわわ言葉」も言語とみなした場合の言語の追求から始めていることをです。アフリカ的段階の言語というものは、乳幼児の「あわわ言葉」に「内コミュニケーション」が移行して発語の起源を形成する時期と対比されています。「あわわ言葉」の時期には、乳幼児はまだ母音とも子音とも区別のつかない言葉の状態で、母音でも子音でもありえる中間の音声を発するとされています。喃語(あわわ言葉)の時期は、ありとあらゆる多様な音をだす時期だということです。つまりどんな音でも出せる時期をにんげんはもっていたわけです。その時期が言語の母型です。ここに戻り、またもっと以前の「内コミュニケーション」の時期に戻り、あるいはもっと以前の「無コミュニケーション」あるいは「死」の時期に戻ろうという「引張りの力能」または「疎外の打ち消し」というものが無意識のなかに働いているという考察も吉本にはあるわけです。
すると琉球語と東北語の共通性のうち、この三母音にない母音が変母音に変わるという現象は本土から来た五母音(あるいは八母音)が琉球・東北に残存するアフリカ的段階の三母音の言語と融和していく現象だといえるということです。吉本は私たちが通常「ナマリ」とみなしているものはすべてとはいえないとしても、三母音と五母音のあいだの融和現象とみることができると述べています。
次に琉球では「虱」(シラミ)が「シサミ」になり「スサン」( このスは小文字)になります。また山形では「塩」(シオ)が「シィフォ」になり、また「ソォ」にまで縮まります。また「喜界(キカイ)」という本土語は琉球語では「キィキィ」になりさらに縮合して「ンキャ」になります。これは琉球語と東北語に共通した特性として、二つのおなじ閉鎖音にちかい子音にはさまれた母音が消失するという現象です。
駆け足でもうひとつ本土語で「雪(ユキ)」は与那国語と東北語では「ドゥチ」になり、「漕ぐ(コグ)」は「クグゥン」となります。これは、ヤ行音はタ行音を濁音化したものと等価をなし、カ行音の濁音はしばしばタ行音の濁音と交換することが可能だと吉本は述べています。
こうした琉球語と東北語の共通性を吉本は三母音への引張りの力能と述べています。これは吉本の造語です。つまり誰も述べていない考察です。こうした琉球語と東北語の共通する特性の時期は、乳幼児期の「あわわ言葉」から離脱した直後の言語状態に対応すると吉本はいっています。
これでようやく「母型論」の「起源論」の解説の終了です。「脱音現象論」にはたどり着けませんでした。それは次回で。乳幼児が言葉を発する時期と、琉球語や東北語に残る日本のアフリカ的段階の言語を対応させて、なにものかが表出されようとする姿と、それがまた起源に戻ろうとする力能を同時にイメージしようとしています。こうした考察の悪戦苦闘が、そのまま日本の未来の姿を追求するイメージにつながる。それが吉本の思想の立ち姿です。なんとかそれをもう少しましに解説してみせたいものです。