「芸術家は習慣によって、即ち技術によって制作してゐる。決して何故?といふ問を喚起しないだらう。この問ひは芸術家の中に一人の批評家を生むものである。僕は、批評家をその胎内に持たない芸術家を好まない。画家音楽家を僕は好まない」(芸術家について)

批評家を胎内に持たない画家、音楽家というのは、目とか耳の感覚器官を主として働かせて作品を作っているということになると思います。そういう芸術家にももちろん言葉はあるわけですが、その言葉は主として感覚器官からの刺激を言葉にしていると思います。それはつまらないことかと言うと、そんなことはないでしょう。ひとつの題材を例えば女性のヌードだとか裏町の風景だとかを一生描き続けて飽きない人がいるように、感覚器官から伝わるものを追い求めて磨き上げて表現を工夫して。それは面白いことだと思います。
しかし何故俺はそういうことに熱中し、いつのまにか深入りしているんだろう?と考え始めたらどうでしょう。考えるのは言葉を使うわけです。そして感覚器官からは何故?という問いの答えは感覚的にしか出てこない。何故好きなのか。きれいだから。なぜ続けているのか。もっときれいなものが見たいから。見えるもの、聞けるものの範囲の中からしか答えは出てこない。それで面倒臭くなってまた感覚の面白さの中に戻っていく。そのうちに感覚的なものの中に入らないと不安でしょうがなくなる。不安だから入っているのか、面白いから入っているのか分からなくなる。
何故不安になるかと言えば、それは世界も自分自身も感覚だけで出来ているわけじゃないからですね。感覚的なものだけで作ったマユのような空間の外側で、怖い事件が起こる、よく分からない事態が起こる、難しい言葉が語られる。自分の中からも不安にさせる気持ちが湧き上がる。衝動や恐怖や怖気づく気持ちが起こる。でもそれを考える言葉がない。それを名づけ、考え、人に伝えたり、人の伝えようとすることが理解できる言葉が自分の中にない。あるのは感覚的な言葉だけだ。
不安でしょうがないからマユの中から出て、なんとか周囲と合わせて生きていける言葉をさがす。そこにあるのはたいてい現実にびたっと貼りついた世俗の言葉だ。世間の知恵だ。深く考えるわけじゃないけど、体験にびたっと貼りついたそれなりに説得力のある生活人の言葉だ。それを習得すると、感覚的な職人芸と世俗の知恵を、二段重ねのおせちのように二重構造にした人格ができあがる。芸術の方は感覚的なものを繊細に周到に磨き上げたマユの中に保存し、生活の方は感覚と体験を混ぜ合わせたようなカレンダーの教訓を集めたようなもので間に合わせる。しかしそれだと知的に文化的に見えないので、表向きは西欧の流行のようなことを言ってみたりする。本気でやるわけじゃない。おせちは三段重ねになるわけだ。
もしも潔癖で、そういう三段重ねができないなら、マユの中に篭り続けて、少々おかしくなっていく。ウソがつけないから。仮面がかぶれないから。何かに保護されていられればいいけど、なんかの弾みでマユの外に引きづりだされたらパニックになってしまう。だまされてスッカラカンになってしまう。強く言われる教えのようなものに逆らえず、熱狂的な信徒のようになってしまう。なんでそんなふうになっちゃうんだろう。それは最初に何故?という自分の問いに答える言葉を見つけられなかったからじゃなかろうか。
自分は目で見えるきれいなものが大好きだ。として、じゃあなんで自分はきれいなものだけを追い求めるマユのような空間に篭るんだろう。その何故に、もし答える言葉が見つかったら、そのマユは壊れるかもしれない。もうその中に篭れば、他のすべてを見ないですむようなマユはひび割れて、ひびの間から外の世界が入り込むかもしれない。それに耐えられるだろうか。マユの外の世界でちゃんと分かって、考えて、人と伝え合ってやっていけるだろうか。そんなおびえ。
そのマユが取るに足らないものだったら、マユに篭っていた自分の歳月は無意味なんんだろうか。マユの中で陶酔していた自分は愚かだったんだろうか。そんな不安。
なんかそこには子供が大人の世界に入っていく普遍的なおびえがあるような気がします。
感覚だけだったマユの中の言葉が変化していって、まだはっきりと観念や概念の体をなさない別のものが入ってくる。それは内臓から来るんじゃないでしょうか。もしマユの中の取りえが純粋であるということなら、内臓諸機関からやってくる言葉の原形質も純な形でやってきます。感覚と内臓の、明瞭な観念を作れる以前のマグマのような取り止めのない、どこにも出て行けない渦のようなものが出来上がって、あとはマユの殻さえ破るならば、外界に対応できる、受け止められる内面の世界がそうして形作られる気がします。気がするばっかで申し訳ないけどね。聞き流して( ><)// 今は試験直前で頭が疲れてしちめんどうなこと考えらんないんすよ。
この俺だってそんなおびえを感じながら、自分のマユをおそるおそる出て、わけの分からない難しげな外界に出て行ったような気がします。もう二度と戻れないマユの世界を名残惜しそうに振り返りながら。それでもなお、寒風の吹きすさぶ荒野のような外界の中で、粉々になって微粒子と化したマユの世界を、言葉や形やしぐさや音の中に幻として蘇らせる者がいれば、彼は芸術家ということになるのではないでしょうか。その外界に出る寸前のマユの世界の中には、やっぱその人の原形質があるんだと思います。まだ明瞭な観念や概念をつかむ前の、混沌とした渦巻きが。自分にとってそれはなんだったんだろう、と思い返させる力がそういう芸術にはある。外界に出たはいいけど、いつの間にか只の外界の鏡になっちまった自分に。立派な思想家のへたくそな模写みたいになった自分に。だからいい芸術は自分だけに、自分の住みかだったマユだけに語りかけてくるような気にさせるような気がします。気がします、ばっかしだな(。>_<。)