疎外された階級は何らかの復讐心を持つであらう。これは種々の形態で発動されるものである。

現在の日本は小泉・竹中政権以後、それまでの中流階級意識が9割を超える中流社会から貧富の格差の拡大した社会に転換させられた。これはアメリカの格差社会と同型のもので、小泉・竹中がアメリカの意向に服従して日本社会を変質させたものと私は考えます。そして抑圧された階級が復讐心をもつとすれば、それは種々の形態で発動される。政治行動として現れるものもあれば、かっての矢沢栄吉のように単独で超人的に努力して上の階級に成り上がろうとするものもある。あるいは復讐心を昇華して学問や芸術へ向かうものもある、あるいは身近なものへの暴力や社会への犯罪にむけるものもあるというように。復讐心を憎しみという情動だと置きなおせば、吉本は憎しみという情動を肯定していると思います。要はどういう形態で発動するかという問題になるのでしょう。憎しみを否定すれば、自分たちを疎外した社会的歴史的な環界に対する対象化の衝動までも抑圧することになります。怒り、憎しみ、それは吉本のはらわたです。
さてそんなところで奥座敷の「母型論」のほうへお入りください。
内コミュニケーションという用語は誤解を生じやすい。これは無意識という概念とまったく同じとみなすことはできない。なによりも内コミュニケーションとは胎内の母親と胎児の母子一体のコミュニケーションに発祥するものだ。胎児はいわば母の臓器のひとつのように生存し生育する。臓器が感覚をもち心の世界をもつように胎児は胎児自身の心を持ちはじめる。その胎児が出産という大衝撃とともに外界に産み落とされる。それはあえてたとえてみれば医療器械に依存してようやく生存できる寝たきり状態の末期の患者が、突然生存機器をすべて取り外されひとりきりで病院の外の荒野に放り出されたようなものだ。それでは胎児が外界に生まれて乳児に変わると内コミュニケーションはどうなるだろうか。誕生以降は外コミュニケーションが登場する。外コミュニケーションというのは母親が抱っこしたり母乳を与えたり声掛けをしたりという形で行われる母子が分離された状態のコミュニケーションなのだと思う。ただし声をかけるだろうが乳児は一年くらいは言葉をもたない。だからこの前言語の状態では母親の言葉は乳児にとって意味をもたない。しかし乳児と母親とのコミュニケーションは途絶えるわけではない。内コミュニケーションの機能は残っていて母親が自分にむける意識と無意識の流れを受動的に、ということは女性的にということだが受け入れる。それは擦り込まれるという言い方をしてもよい。母親が乳児にむける意識と無意識がストレートな愛情の流れであっても、意識と無意識が分離した心の腰の引けたものであっても、意識も無意識も一体に向けられる虐待的なものであってもすべて臓器の一つであった胎児のように乳児はその母の心とエロスの流れに染まり浸かり侵されていくのだろう。それは素晴らしいことでもあり怖ろしいことでもある。
そして乳児は乳離れをしていく。それは1歳前後のことで以後は小学校に行く頃までを幼児と呼ぶようだ。幼児の時期にヒトは言葉を獲得してゆく。では言葉を獲得していった幼児にとって内コミュニケーションはどうなっているのだろうか。内コミュニケーションは胎乳児においては外界と自分とを結ぶすべてといっていいのではないかと思う。乳児においては誕生しているから外界からの感覚的な刺激は森羅万象として乳児に降り注ぐ。母親も父親も家族も乳児に笑いかけたり言葉をかけたりはするだろう。それは乳児のこころに様々な揺らぎをあたえて生育を促すだろうが、圧倒的に乳児の無意識を(といってもすべてが無意識なのだが)占めているのは母親の存在だろうと思う。母親からの内コミュニケーションが乳児の無意識を形成する。この内コミュニケーションによって生きている幼児のこころを吉本は「大洋」という自身の用語で呼ぶ。吉本が造語するときは造語するだけの必然的な理由がある。吉本があえて大洋という概念を作ったのは、おそらくフロイドの幼児論、幼児心理や幼児性欲の理論と自らの理論を分かつためだと思う。吉本は独自のフロイド理解を持っていて、多くをフロイドから学びながらも一定の批判も行うことができる。そのフロイド批判の解説はちょっと置いておいて、この「大洋」の時期から言語が登場して幼児が言葉を話すようになる。するとそれ以降内コミュニケーションはどうなるのか。幼児が言葉を覚え、学校に通うようになって児童期と呼ばれやがて思春期、成人期というようになって私のように中高年となって老人となって死人となるわけだ。その言葉を覚えやがて言葉が空気のように自然なものになってすべてが言葉のなかに込められるような感じで生きていく人生において、内コミュニケーションという機能はどうなっていくのか。それはおそらく深く無意識として沈められる。内コミュニケーションがすべてであった胎乳児の段階で、そのこころを占めていた内臓の動きと体壁系の感覚の刺激が混沌として海のようであった内容は、吉本の表現では「幼児のリビドーは言語的な世界のなかに圧縮され、また抑留される」ということになる。この吉本の文章のなかには批判的なトーンがある。「大洋」が言語を獲得すると、大洋のエロスすなわちリビドー、海の波立ち、海の中の海流の動きは言語のなかに込められる。言語の意味と価値とがこころと同じもののようにみなされるようになる。しかしそれは大洋のすべてがありのままに込められるのではなく「圧縮」され「抑留」されると表現している。また別の「母型論」の個所では幼児が言語を獲得するには「概念」と出会わなくてはならない。たとえば大洋のイメージのなかの小鳥と、空を飛ぶ実在の小鳥と、紙の上に描かれた小鳥とを同じ小鳥の「概念」として固定できるようにならなくてはならないと述べている個所で、「概念」を固定することで言語を獲得するようになるが「それと同時に大洋のイメージの世界は、その特色のうち、とても重要と思われる波動を失ってゆくことになる」と述べている。ここにも同じような言語獲得に対する手放しの生育の賞賛とはいえない批判的なトーンがある。吉本は何が言いたいのか。
おそらくここには吉本がにんげんの胎児期からのこころの解明を通して展開したい文明論のモチーフが潜在しているのだと思う。アジア的段階という歴史段階の以前にアフリカ的段階という歴史段階を設定して追及しているのも、こうした胎乳幼児期の解明に連携しているのだ。それは原子力の解明が宇宙の解明に連携しているようなものだとたとえることができる。にんげんが言語を獲得していくことは後戻りのできない必然であるけれど、言語を獲得する過程で失われるものがある。それは大洋の世界が言語的な世界に変わるその時に生じるものだ。そして吉本の考えでは精神分裂病という精神病のなかの精神病というべき「純粋」なこころの病も、吉本の表現でいえば、言語が乳児のなかで発生する「微妙にこの一瞬の空隙状態に関与している」ということになる。吉本の考えでは分裂病者のなかには内コミュニケーションは言語獲得の以降も精神の
所要な座として生き続けることになる。では分裂病者でない成人のなかには内コミュニケーションは生きているのか。それは生きているのだと思う。それは私たちの勘とか察知とか虫の知らせとかの心の動きとして、あるいは夢の中のこころの動きとして。あるいは宗教に惹かれる心の動きとして。あるいは自然や宇宙に惹かれる心の動きとして。つまりあらゆるところに無意識から露出する内コミュニケーションの地底湖のようなものがあると私は考える。
内コミュニケーションの用語解説だけで終わってしまったo( _ _ )o まだるっこしいとお嘆きのアタタに耳よりの情報が。「母型論」を買って読めばいいよ。そうすればこんな解説なんか読む必要がなくなるから。