「この国の社会様態は、中世人と現代人とを同時に共在せしめてきた。今や、経済的悲惨は、個々の人々を分裂せしめてゐる。即ち、生活様態は中世的に、頭脳は現代的に。 且てこの分裂は、知識人と労働者階級との間の分裂であり、同時に均衡であったが、今や、個々人の内部における思想と様式、現実と精神の分裂をうながしてゐる。即ち、四重の双極子分裂の状態が、この国における形而上的な表情である」(中世との共在)

日本の中世的っていうのは、要するにアジア的ということだと思います。現代的というのは欧米的ということでしょう。かってそれはインテリは欧米の模倣を行い、大衆はアジア的な生活と思想の中にいた。でも社会全体が次第に欧米的になっていって、個々人の中でアジア的な精神の残滓と欧米的な意識とが共存するように内面化されてきたというようなことでしょう。
自分の掘っ立て小屋の中の、日常の問題としてこのことを考えると、ぶっちゃけたい( ><) という衝動じゃないかと思います。それはアジア的なものだという気がする。考え、こだわり、追求すると独りになりますよね。一人一人考えは違うわけだから。それは西欧的なんだと思うんです。だから分裂してる。それは成人だということと、幼児性というものとの分裂でもあるんでしょう。その分裂をどうすればいいのかは分からない。ただ知が与えてくれた取りえがあるとすれば、その分裂がわたし独りの性格のゆがみなどに由来するのではなく、もっと深い歴史的な根拠があると啓示してくれることです。それは無用な劣等感をぬぐってくれます。

おまけです。鮎川信夫について書かれた評論の一部です。吉本は彼の掘っ立て小屋について触れています。

鮎川信夫との交渉史」 吉本隆明

(略)
この時期、わたしの人性上の問題について、もっとも泥まみれの体験をあたえ、じぶんがどんなに卑小な人間にすぎないか、あるいは人間はいかに卑小な人間であるかを徹底的に思いしらせ、わたしのナルチシスムの核を決定的に粉砕したのは、失職後の生活上の危機と、難しい恋愛の問題との重なりあった体験であった。そうして、この体験においてわたしの人性上にもっとも痛い批判を与えたのは、記憶によれば、一方は鮎川信夫奥野健男であり、一方は遠山啓氏であった。わたしは、ひとかどの理念上の大衆運動をやったうえで、職をおわれたとおもって無意識のうちにいい気になっていたが、現実のほうは、ただわたしをひとりの失職して途方にくれた無数の人間の一人としてしか遇しはしなかった。これはしごく当然であるが、当時の幼稚なわたしには衝撃であった。また、一方でわたしは女の問題で足掻き苦しみながら、じぶんの精神を裸にされたただの人間にすぎなかった。
(略)