このいら立たしさは何処から来るか。人は絶えず自らの為すべきことを持つてゐる。(断想Ⅰ)

自らの為すべきことを持っている、というのは「仕事」ということだと思います。何度か書きましたが、「仕事」という吉本の言葉は生活費になる仕事ということを必ずしも意味しないと思います。つまり金にならなくても、どうしてもやりたいことがあればそれが「仕事」です。吉本にとっての「仕事」はこの世界の認識でした。その吉本の「仕事」は原稿料や印税になった時もありますし、「試行」に書かれた論文のように金にならないこともあったわけです。吉本は他の作家の作品も「仕事」として受け止めています。つまり売れているかどうか、生活がなりたっているかどうかで見ているわけではなく、その人がどうしてもやりとげたいこととして生活費を別に稼ぎながらでもやっていれば掛け値なく評価するということです。そして案外そういういわゆるマイナーな世界にとんでもない才能がいたりします。そういう人物を吉本はちゃんと評価することができた。それが吉本の批評家としての力量です。
さて吉本の「うつ」の理解という解説に移りたいと思います。吉本の「うつ」の理解のなかに、自分の身体が「今ここにある」という心的な把握が根源にあるという考察が出てきました。これは吉本の身体論、あるいは心身相関の理論といえます。これはぱっとわかるというわけにはいかないでしょう。そこでこの解説をしようと思います。
しかし、この心身相関の考察は吉本の「心的現象論」の根底をなす考察です。ここを根底として、吉本の言語論や幻想論の展開が行われることになります。だからこの心身相関の考察を解説することは吉本の心的な思想のすべてを解説することになります。それをやっていては「うつ」理解の問題は棚上げしっぱなしになるので、なんとか必要最小限の解説を試みます。
こころというものの最初の状態を考えると、たぶん自分のこころも外界も区別のつかない丸ごとの状態であると考えてみます。カオス。混沌。神話に出てくる初源の、なにもない、あるいはすべてがあるような一体となったわけのわからない世界です。それが分化されてにんげんの世界があらわれる。わたしたちが赤ちゃんであった時に、ビー玉のような目で感じた、もはや再現できない、宇宙そのもののような世界から、ものごころがつく世界に移っていくわけです。そこでなにが根源的な混沌の世界の区分になるのだろうか、ということが問題意識となりましょう。
吉本は初源にあるその区分を「関係」と「了解」という2分法の方法でおこなっていると思います。「関係」とは空間にあるものを、あれは海だとか、あれは花だとか認識することです。それを「関係」と呼びます。だから「関係」は「空間」にあるものの認識ですから「空間性」と呼び変えることができます。
もうひとつは「了解」です。吉本はカエルの解剖から展開された感覚器官の論文に疑問を呈していたことがあります。特にカエルの眼の感覚器官について、カエルが外界をどのように見ているかがわかる。しかしその見ている外界をカエルがどうしてこれがエサだとか、これが敵だとか認識しているかはわからない、ということです。感覚器官をどれだけ詳細に研究しても、その感覚器官からやってきた情報をどのように把握するのか、という問題は解明されないわけです。なぜならそれは生理学的解剖では発見できないものだからです。この把握し認識しというはたらきを吉本は「了解」と名づけています。花の色、花の形、花の香り、それらを「これは花だ」と把握することが「了解」です。空間にあるものを感覚し「空間性」を形成するのが「関係」だとすれば、それを意味づけ、把握し、区分していくものが「了解」です。「了解」は「時間性」と呼ばれます。「空間」と「時間」ということです。「了解」を「時間性」と言い換えることは、「時間」ということを1時間とか2時間といった自然時間の感じで考えると分かりにくいと思います。「了解」を「時間」だというときの「時間」は自然時間ではないのだと思います。それは感覚的に把握された対象が、ある意味として認識されるまでの「時間」なんだと思います。それを「時間」と呼ばなくてもいいのかもしれませんが、それを「時間」と呼んでいるのでとりあえずその呼称に慣れていただきたいと思います。「関係」である「空間性」と、「了解」である「時間性」という大きな区分で赤ちゃんのいるカオスである宇宙は、ものごころがついたにんげんの、人の暮らす世界に変貌していきます。
ではここで、その大きな区分の生まれる根源はなにか、なにを基準にして「関係」と「了解」は生まれるのか、という問題が生じます。「時間性」である「了解」は「いま」という基準が必要になります。「いま」があるから過去と未来があるわけです。「時間性」の根源は「いま」という把握が可能な根源です。また「空間性」である「関係」は「ここ」という基準が必要です。「ここ」があるから「ここ」との関係として空間が形成されます。「空間性」の根源は「ここ」という把握だと考えられます。
そして吉本は「いまここ」という「了解」と「関係」の根源を、「じぶんの身体がいまここにある」という把握にあると考えるわけです。前回の解説に戻りますと、「いまここに」と「ある」とは違います。「いまここに」までは、今までの解説に出てきたわけですが、「ある」は出てきていません。「ある」とは何か。それを解明するために自分の身体が「いまここに」「ある、という気がしない」「ない」という根源的な把握の異常をとりあげています。そこから吉本の「うつ」理解が始まるわけですが、それはちょっと置いといて、また吉本の心身相関の考察に戻ります。
「情況への発言」という昭和43年に出版された古い吉本の講演集がありまして、そこに「幻想としての人間」という講演の記録があります。だいたい講演というものは難しい話をわりあいとわかりやすく話し言葉にしてくれているので、難しいゴリゴリの理論が分かんない時には講演を読むと助かったりするんですよ。それでこの講演からこの問題を追ってみます。
この講演では「了解」のことを「抽象」あるいは「自己抽象づけ」と言っていますが、これは「了解」とか「時間性」と読んでいいと思います。吉本はここでじぶんでじぶんを抽象づける(了解する)意識と、じぶんでじぶんを関係づける意識の、ふたつの相交わったところで人間の存在が考えられるといっています。つまりこれは人間が人間である根本だということです。動物にはないものだということです。だからこそ、この区分が言語を生み出します。そして3つの基軸をもった幻想の体系を生み出します。それは人間だけがうみだすものです。
この講演では、このじぶんの身体を「いまここにある」と把握することから他の対象、つまりこの世界の把握に展開することをわりあいわかりやすく説明しています。たとえば目に見える机が机であるという意識は、根源に「自己関係づけ」つまり「じぶんがここにある」という意識があって、それがいわば拡大したところで考えられると吉本は述べています。赤ちゃんが、じぶんがここにあるという意識をおぼろげにもって、それからはいはいしたりつかんだりなめたりして対象を把握していく姿を思い浮かべるといいと思います。「じぶんがここにある」という根源の把握の拡大として、そこになにかがある。そうして「空間」がじぶんとの「関係」として把握され拡大されていきます。しかしそれだけでは、なんか四角い、硬い、上が平べったくて棒が4本出ているものがあるということでしかありません。それはなぜ「机」だと把握されるか。
それは「机」だという「了解」の「時間性」だということです。そしてその「了解」は「じぶんがいまある」という根源の把握の拡大としておこなわれます。じぶんがあって、そしてあれは机と呼ばれ、そのうえでひとが本を読んだり食べ物が並べられたりするものだという「了解」です。
この構造は視覚だけではないわけです。五感覚すべてにこの「関係」と「了解」それが「じぶんがいまここにある」ということの「自己関係づけ」「自己了解づけ」の拡大としておこなわれるということになります。
では五感覚、視覚だけでなく、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という感覚もまた空間性としての受け入れ、つまり「関係」と、時間性としての受け入れ、つまり「時間」とが相交わったものだとすると、それらの差異はどう考えればいいのか。ここが吉本の科学者でもあるすごいところだと思いますが、それを受け入れの空間化の度合いと受け入れの時間化の度合いの違いという概念で把握しようとするのです。度合いの差異という概念に還元できると吉本は述べています。「それが一般に感覚作用の了解、つまりふつう知覚というふうにいわれているものの根本的な構造であります」と吉本はこの講演で語っています。
さらに言語や幻想への発展について講演は続くのですが、それを追っていくと吉本の心的現象論や共同幻想論の全体について分け入っていくことになります。それでもいいですが、吉本の「うつ」理解を追うのが本筋なので、そちらに戻りたいと思います。それはまた次回で。