叙情とは存在の空孔に充たされる液態だ。どうしてそれが必要だらうか。我々が現実に密着すれば、この空孔はそのまま乾燥する。(下町)

叙情というのは感情とか感慨とか詠嘆というような(ああ!)というようなアレですね。それが現実に密着すれば必要なくなるかどうかは疑問です。ただ現実意識が欠如していることが叙情に転化されることが許せないという若き吉本の怒りがあるんだと思います。
この初期ノートと同じ敗戦期の吉本の叙情(抒情)というものに対する考えを「抒情の論理」(1959)という著作のなかの「四季派の本質―三好達治を中心に―」という論文から取り出してみます。四季派というのは戦前に「四季」という詩誌があって、そこに三好達治とか丸山薫中原中也立原道造といった有名詩人を中心に詩人が集まったんだそうです。それらの詩人たちを四季派と呼ぶ。そして戦争が始まるとこれらの詩人たちの多くは戦争詩を書いたらしい。つまり戦争を肯定した詩を書いたわけです。とはいえ戦時中戦争を肯定した文章を書いた文学者はたくさんいたし、戦争を否定した文章など発表できない時代ですから、そういう表現を発表したこと自体は四季派に限ったことではない。もちろん庶民は戦争を肯定していたし、吉本自身も戦争を心から肯定して戦争死を覚悟していた学生であったわけです。
ではなんで吉本がこの論文で四季派の戦争詩の問題を取り上げたのかというと、それは吉本の敗戦期の主要なテーマである文学者の戦争責任論の一環であるからです。また文学者の戦争責任を追及するモチーフは文学者だけの戦争責任をあげつらいたいからではない。一般大衆や知識人が総なめにされて戦争肯定に染まっていってしまったのは何故かという問題を解明するために文学者の戦争期の表現を追求したということです。それはもちろん吉本自身が俺はなぜ戦争を肯定し天皇を肯定し心から軍国青年であったのか、という自問に答える道でもあったんでしょう。
「四季派の本質」は三好達治の詩を典型的に取り上げて論じています。四季派の詩というのは詩人たちの顔ぶれを見ればわかるように、自然詩人で自然を歌う詩です。要するに昔からの自然詠という日本の詩の伝統を継ぐものです。四季派には優れた詩人たちが集まり、その詩は戦争期の若者にたいへん愛好されたらしい。吉本もまた殺伐とした戦争期の日常からかけはなれた四季派の詩を読んで心を癒されていたと書いています。
その四季派の詩人たちが戦争詩を書いたという問題は戦後吉本の大きな問題でした。それは吉本自身が詩人であったからで、そこが吉本の世界観における問題意識が一般的な学者評論家の問題意識より一次元増えている理由です。それは感性の秩序というものを問題にしえていることだと考えます。詩というのは感性の秩序そのものが露出される表現ですが、その感性の秩序が現実の支配秩序とどのような構造を介して関係しているのか、ということを問題にしています。
四季派の詩は現実の社会秩序に無関係のように描かれ、自然に包まれた人間を歌う。しかしそれが四季派の詩人の意識が現実に無関係に成立していることにはならない、そういう問題が戦争期の戦争詩のなかにあらわれた。典型として三好達治の戦争詩を考えると、三好はたとえば次のような詩を書いている。
 神州のくろがねをもてきたへたる火砲(ほづつ)にかけてつくせこの賊
 この賊はこころきたなしもののふのなさけなかけそうちてしつくせ
賊というのは英米という戦争の敵国のことです。日本は神州だからそこで生産されたくろがねで作った大砲で賊を撃てとか、この敵国はこころの汚い連中だから日本のもののふである軍人たちは情けをかけずに殺しつくせといった内容です。
三好達治には有名な詩として「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ、次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」という詩があります。また自然を歌う多くの詩があります。こうした自然を歌い、優しい民話的情感を歌うことと、いっぽうで戦争の敵国を賊といい「うちてしつくせ」というような残忍な感覚とがなぜ共存しているのかという問題は、吉本によれば三好を典型にした詩人たちが現実の支配秩序と感性の秩序を対決させることができずに、現実の秩序に感性の秩序を従わせてしまった結果だということになるんだと思います。吉本の念頭にあったのは同じ時期に戦争に対する詩を書いた欧米の詩人たちだったでしょう。そこには戦争に対して個として抗い対象化しえている詩が存在する。感性の秩序が現実の支配秩序に抗して自立するということは、現実の支配秩序と感性の秩序の論理的な解析と関連性の分析を前提にして可能なものだという認識があるわけです。
三好を典型とした四季派の詩人たちは、現実の支配秩序を解明して批判的に感性の秩序を構成するという課題を生きることができなかった。ではなぜ三好の詩のような古典的な、あるいは古代的な感性の秩序がそれなりに高度な資本主義国家として戦争を遂行している戦時中の日本で成り立つのか。それは日本が近代的な西欧型国家であると同時に後進的な前近代的なアジア的特質というものを併存させていたためであるというのが吉本の考えです。そして戦争期には近代的な国家として戦争を遂行するいっぽう、大衆を組織する場面ではアジア的な後進性の特質を利用した。大衆は近代的な意識を国家に組織されたのではなく、後進的なアジア的特質を組織されていった。その国家の打つ網のなかに四季派の詩人たちもすくわれていったとみなされます。
三好達治は大学においてフランス文学を習得し、メリメの訳者であったりボードレールの訳者であったりした西欧の近代文学の昭和における代表的な紹介者のひとりだったそうです。西欧の近代思想にも近代文学にも最先端の知識をもっていた知識人だった。しかしそうした知識が、彼の感性の秩序を、欧米の詩人たちが達成できたように現実の支配秩序からの自立させえたわけではない。それが教訓です。どんなに最先端の知的言語を操ろうと、過激な革命的な言辞を吐こうと、あるいは現実を超越して自然のなかにすべてを見出したような風貌をしていようが、あてにはならないということです。日本においては日常生活や政治経済というような社会的な環境とたえず自分を区別することができないと、感性的な秩序がアジア的な後進性にからみとられ先祖がえりしたような感性の秩序に落ち込むことがありうるということです。それは今回の原発の問題にもあらわれると思います。いかに悲惨な事故の後であろうと私たちは相変わらず先端的な科学技術と政治経済の課題を避けることができない。そこから目をそらしたり目をつむったりすると、前近代的な優しさや残忍さの感性のなかにすべりおちていくんだと思います。