「戦争に介入してはならぬ。そして僕の抵抗の基盤は、僕の畏敬する多くの人たちが死ぬのが堪えられないからだ。そして僕の軽蔑する人たちは、戦争が来やうと平和が来ようといつも無傷なのだ」(風の章)

戦争というのは吉本にとってただの言葉でも概念でもなく、自分の命を賭け、周囲の近親や友人が命を失った体験です。つまり触れれば血の噴き出る言葉です。もう戦争はごめんだ、戦争だけは嫌だ、戦争っていうのは最低だ、ひどいもんだ、それが敗戦当時の多くの日本人の共通の思いだったと思います。しかし、それが体験的な感情にとどまる限り、風化しちゃうんですよ。あんた失恋したことあるでしょ!あるよ、隠したって分かるんだこっちゃあ( ̄ー ̄)その時は、もう恋なんかしたくない、したくないのさ〜って誓ったでしょ、チューハイ飲んで。でもまたするわけだ。そういうのが風化ですよ。感情はいかに切実でも激烈でも長くはもたない、だから相手が自分のしたことでギンギンに怒っていても、あわてないで少し日をおいてから謝りに行けばいいんだよ。きっと少し冷静になってるから。ちゃんと謝れば許してくれるかもしんない。怒ってるからって怖がって、それきり近づかないってのは感情の風化の法則を知らないんだよ。それは田原先生も教えてくれたことですね。吉本も感情の風化の法則を知っていた。切実な体験だったらなおさら、深く考えて論理としてつかんでおかないと、戦争の切実さの意味が変節してしまったり、ごまかされてしまったり、自分でごまかしてしまったりすることが分かっていたわけでしょう。若いのになんとも老成した部分がありますよ、吉本って人は。不思議だね、なんなんだろう、子連れ狼の大五郎じゃないけど、幼くして死生眼をもっているみたいな。天才的な人ってそういうところがありますね。なんかしんないけど、しょっぱなからワカッてるんだよな。そこは面白いですよ。話はそれるけどさ、人類の叡智はお釈迦さまだのキリストだのソクラテスだのモハメッドだのがぞろぞろ世界各地でモノを考えて真理に近づいた数千年前の時代に頂点を極めて、それ以降はたいした進歩はないんじゃないかって考えがありますね。吉本もそう言っています。もう考えられるだけのことは古代思想の中で考えつくされたんだ。後はその後追いっていうか、分化っていうか、物質に限定して分析を続けただけっていうか、要は人間としての叡智は古代以降は拡げたりほじくったり詳しく語ったりしてるだけで、古代以上のオリジナルな世界思想なんて出てこなかったんだという考えです。だからそれは宗教という形で、あるいは近代思想の原型という形で今も脈々と生きているんだ、その生命力を超えられないんだということです。つまり人類全体としてもなんかしょっぱなからワカッテるわけですよ。人間の一生で考えても、吉本にそういうタイトルの本がありますけど、子供はぜーんぶわかってるっていう、子供時代っていうしょっぱなからワカッテるんじゃないかっていう考え方があります。あなたどう思います?子供はすべてを大人が教え込む未成熟な対象にすぎず、文化は未開のバカから文明の利口に進化を遂げるものであり、しかるがゆえにイランや日本や北朝鮮のような遅れた土人の国は欧米白人によって指導を受け、矯正されなければならず、動物は人間によって飼育され、しつけされなければならない。このバカとリコウの秩序。心を天空高くからどかーんと抑圧してくるこの見下しの視線ってものを、あんたどう思います?それはイヤでしょ。ムカつくでしょ。でもムカつくだけじゃ、そのムカつきは風化するんだよ。リコウというのはつまり欧米が古代思想を原型として築き上げた観念の帝国ですね。観念の秩序です。それが抑圧であると感じるのは、どっか間違っているからでしょう。しかしその切実な反感や反抗や異議申し立ては風化する。膨大な観念の帝国を、包括して乗り越える思想が生まれない限りは。人類の子供自体の持っていた、また人間の子供時代の持っている、あるいは生命体の子供時代のようなところでもっている、しょっぱなから分かっている真実が切り捨てられずに復活する思想ってもの。吉本は生涯を賭けてそのとんでもない課題に挑んだと思います。そして驚くべきところに到達してるんだ。でもそれを誰も語らねえんだよね。吉本論みたいのが今もあるけど、誰も触れようともしない。孤独なんだ。きっとまだ数十年かかるよ、吉本の分かってることがわかるまで。死んじゃってるよな当人は(ノ_・。)話を戻すと、吉本は戦争を風化する感情だけでなく、感情を論理に置きなおす努力をしたんです。論理から感情を見て、感情から論理を見る。それを繰り返して思想を築いていった。吉本の戦争観はひとことで言えば、あらゆる戦争は悪であって、例外は無いというものです。それはそうだよな、と感じるのはまだ風化していないお父さんお母さんの世代の戦争経験の痛みが、俺たちのどっかに巣くっているからですよ。それは負けた国の人間の叡智でしょう。しかしもうかなり風化してますね。またぞろ戦争戦争って勇ましいことみたいに考え出しそうな気配がありますよ。あらゆる戦争がダメなんだ、という考えは世界的には少数派です。世界思想としても少数派なんだと思う。日本人には意外だけれど、良い戦争はするべきだという考えが世界的に多数派なんだと思います。吉本は戦争観を様々な大きな思想の中に分け入って調べ、論考として提出しています。吉本は黙っていないからね。特にアフガン戦争とか、イラク戦争とか、9.11でブッシュがテロとの戦争だとのたまった時とか、肝心なときに徹底したことを間髪を入れずに論考を発表します。逃げないから。言ったら危ない時にこそ捨て身で言う、それが間違ってても、恥をかいても、文筆業者として成り立たなくなりそうでも言うわけですよ。それが吉本に体現された日本の戦後の知識人の最良の倫理的な立ち姿です。これが素晴らしい。これができない奴は会社でも、ここぞという時に仲間を見捨てる奴だよ。吉本は戦争観を調べ、シモーニュ・ベイユの思想に出会います。ベイユは優れた社会分析の能力を持ち、徹底した思考の資質を持ち、そしてまっしぐらに死に向かうような異様な心の資質をもった女性です。吉本のベイユを語る論考はとても素晴らしい、ぜひ読んでみるといいですよ。俺の解説なんか読んでる場合じゃないよ。こんなアホなもん(+_+)吉本はワカッテるんですよベイユって女のことが。とても優れているってことが、なんかとても心の奥のほうでとてもキツイってことと引き換えみたいに存在するってことですよ。しょっぱなからワカッテるってことを、この社会で本気で生きようとした時に、どんな悲劇が避けようもなくやってくるかってこと。それが詩ってことでしょう。詩的なものが現実で、現実的なものは詩的なものなんだという谷川雁の追悼で書いているそういう詩っていうやつだと思う。あらゆる戦争は国家がその国の民衆を殺させることなんだ。それはイデオロギーによってどんなに正当化されようと普遍の真実だ、社会主義の戦争は良いとか、テロに対する報復戦争は良い戦争だとか、北朝鮮からテポドンを打ち込まれたらやっちゃってもいいんだとか、そういうあらゆる戦争の正当化は成り立たない、戦争は国家が自国民を殺させるものだ。それは感情であり論理である思想です。それはよく読んでみてください。読めばわかるよ。古本屋か図書館行けばあるよ。戦争というものは戦争経済とか特需景気というように、戦争によって経済危機を打開する一種の経済政策であり、戦争による兵器の消費と戦後の復興への介入を狙う一種の公共事業なんだと思います。副島隆彦という人がそう言っています。その通りだと思う。しかしそれだけでは全国民を戦争に駆り立てられないとも思います。プロパガンダでやられたんだというだけじゃない。プロパガンダがなぜ国民を駆り立てたのか。そこに国家が共同の幻想であり、共同の幻想はその根っこを古代的な情念に置いているという共同幻想論のテーマがあると思う。ベイユはそれが分かり、ある意味で分かりすぎて深みに引きずりこまれていった人です。副島さんの言うように戦争はきっと周到に仕組まれ、はじめから終わりまでプログラミングされているものです。それはきっと現在もどこかで仕組まれていて、やがて戦争が日本を含めた世界のどこかで始めるでしょう。それはきっと避けられない。しかしその事態を考え分かることはできます。その分かるという規模がどこまで届くかということだけが、ただの一般庶民である、しかし人間という条件では支配者どもと何も変わらない私たちの課題なんだと思います。