こういつた愛惜のまえでは、思想の巨きさと小ささとは価値をはかる尺度となえない。かれは、だれが何と言おうと、ひとつの取るにたらぬ個人の、未成熟な時代の作品をよみがえらせるために、どこかでそれを愛惜したのである(過去についての自註)

吉本はどこかで(作家についての自分なりのランキングがあって、そのランキングの基準は作品の出来ではなく、その作家が作品を作らざるをえない必然性です)という意味のことを書いていました。作家には作品を作る契機というものがあり、また作品を公表するに至る契機というものがあるでしょう。またその契機を作家が自分でどう考えているかということがあるわけです。
吉本にとって結果はどうあれ、内面の動機という必然性がおおきな問題だったということです。
吉本は自分で川上春雄に若年期の文章の発掘を依頼したわけではなかったでしょう。川上が自分なりの契機で吉本の文章を足で歩いていぶかしがる人たちに頭をさげて発掘してまわったのだと思います。そのことは吉本には川上春雄が自分の若年期の文章が埋もれ去るのを愛惜したと考えられたのだと思います。そこに吉本は川上春雄自身を視ようとしています。川上が吉本を愛惜したように、吉本は川上の努力の契機が秘され忘れられることを愛惜したのだともいえます。
公的な意味をもった初期ノートの公刊ということが、その背景にある目に視えない秘され埋もれていく動機のほうへイメージをおおきくときはなっていくことがわかります。それが吉本の文章のもつ魅力なんだと思います。視えない世界につながっている文章の魅力です。

おまけです

マルクス紀行」(「カール・マルクス 光文社文庫より」        吉本隆明

「現存している現実とそこに生きている人間関係とを、じぶんの哲学によって考察しつくそうとする衝動は、青年期のすべての思想的人間をとらえるだろうが、かれほどの徹底性と論理的情熱をもって青年期の願望を成遂したものは、数世紀を通じて現れなかった」