放浪と凱歌。僕が青春の終末に言ふべきこと。(原理の照明)

吉本は「言語にとって美とはなにか」のあとがきで「試行」にこの論考を書き続けているあいあいだ、沈黙の言葉で「勝利だよ、勝利だよ」とつぶやき続けてきたと書いています。つまり思考と実生活の放浪の果てのそれが凱歌とも言えるでしょう。沈黙の凱歌だけれど、もっとも勇気づけられる凱歌ですね。



おまけ

ありません。

僕の存在は何かにむかつて無限の抑圧を感じてゐる。僕は、どうしてもそれを逃れることは出来ない。存在は外的な現実の歪みを感じてゐる。あの歪みのむかふ側に自由があるのだ。あの歪みは無数の観念の亡霊をその周辺に集めてゐる。るゐるゐたる屍体の群、血の抑圧、しかも一様に傷つきはてた者たちは僕のやうに困迷してゐる。僕はその突破口をすすんでゆかねばならない。(原理の照明)

これは具体的には何を言っているのが分かりにくいですね。無限の抑圧を若き吉本に感じさせている「何か」ってなに?よくわかんないけど、その「何か」は現実の歪みの中心、ブラックホールみたいな感じで、「無数の観念の亡霊」をその周辺に集めている。亡霊というんだから、もはや現実には対応できない時代遅れの観念が、その「何か」のおかげでふらふらと飛び回っているということでしょう。その「何か」の周りにはるいるいたる屍体の群れがあるってんでしょ。

たぶんこの「何か」は「天皇」だろうと私は思います。はっきりそう言わないのは、「天皇」個人の問題ではないからです。「天皇」という観念を成り立たせている日本の共同的な観念の全体の構造というようなものがあって、その共同観念を成り立たせている現実の構造というものがあって、それが「現実の歪み」ですから、それを視ちゃった者たちはるいるいたる死体の群れ、血の抑圧というような姿になって横たわっているんだけど、でも僕は突破口を進んでいくんだということでしょうね。実際、突破口は「共同幻想論」というような形で創りだされたわけです。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。「存在倫理」という概念の解説をしています。その続きです。

前回の解説は9.11の同時多発テロ事件後に吉本が「存在倫理」という概念を提出したわけで、それはアメリカとイスラム原理主義の双方の国家倫理と宗教倫理の対立の限界を超える「根底倫理」の試みだったというものでした。対立の限界という見解の背景として、吉本の「国家は宗教の最終形態である」という考察を解説しました。国家も宗教も共同の観念、吉本の概念では「共同幻想」です。観念性、幻想性が本質なので、国民や信者を殺しても共同観念を抹殺することはできません。共同観念、共同幻想には、出現の必然性と、消滅の必然性があって、その経路を踏まないで中途で消滅するということは原理的にはないわけです。だから国家も宗教もまだ共同幻想として根強く存在しえている現在においては、どのように対立し殺し合おうとも互いを抹殺することはできないし、また互いを罵り合っても、宗教と宗教の最終形態が対立しているという限界の内側にあるということになります。もし宗教が消滅するとしたら歴史的に共同幻想性が消滅する必然性に段階として踏み込んだということであって、それは同時に国家という共同幻想も消滅する段階を意味しているということになります。これほど透徹した9.11への思想的理解というものを吉本以外から聞くことは当時も今もできません。

ではその宗教や国家が消滅する必然性が登場する段階、現存する共同幻想の向こう側に水平線のようなものが見え、その水平線の向こう側というものがイメージとしてだけですが、鋭敏なものには感じ取れる、そんな段階はいつやってくるのでしょうか。吉本はもしかしたら、すでにそういう段階に少しだけ入り込んでいるんじゃないかと考えていたと思います。そのことが9.11だけでなく、阪神大震災オウム真理教事件、また東日本大震災原発事故などについての吉本の発言の背後のモチーフだったと思います。吉本には時代が根本的に変わっていくめやすとして現れた重要な天災や事件だというモチーフがあった。しかし世間は吉本の発言をめちゃめちゃに非難しました。それは今でもインターネットに過去の書き込みとして残っているからいくらでも読むことができます。吉本は人殺しの麻原をかばったとか、吉本は原発事故を容認しているだとかいったくだらない非難がいっぱいあふれています。そしてそれを契機に吉本から離れていった人たちも大勢いました。吉本は自分の発言がそうした結果を引き起こすことを覚悟のうえで発言したと思います。それくらい個としての信念を公的に発言するということは厳しいことです。この個として、厳しい孤立を支払っても真実と思えることを発言する「勇気」が吉本が残していった偉大なものだと思います。

さてその問題、時代が新しい段階に入ったのではないかという吉本の考察がビビッドにというか、迷いながらも勇気をもって発言する姿勢があらわれている著作は「宗教の最終のすがた(1996年 春秋社)」だと思います。この私の解説のモチーフは吉本の分裂病の理解について解説するというもので、全然関係ない話をしてるじゃないかと思っているかもしれませんが、大丈夫、大きく回ってブーメランのように話は戻ってきますから。分裂病統合失調症)の現代的な現れ方の根底に何があるかという考察の前提として、吉本の新しい段階に社会が入りかけたという見識や、「存在倫理」が登場するという考察が必要になります。

「宗教の最終のすがた」という本は芹沢俊介が聞き手になるインタビューのような対談のような本ですが、この本の話題の中心は阪神大震災オウム真理教事件です。このふたつの出来事は1995年に起こっています。突如としてこの年に西の天災と東の人災が起こったことになります。今からもう22年も前になります。十代の人たちは情報としてしかしらない出来事ですね。9.11の事件は2001年に起こっています。阪神大震災、オウムのサリン事件の6年後です。吉本はずっと自分のモチーフを深化させながら、社会の出来事を追い、それに対する考察を単独で公的に発言し続けたことがわかります。

「宗教の最終のすがた」の冒頭に「西の天災と東の人災」という文章があって、そこに吉本のモチーフが簡潔に述べられています。まずそこから解説します。

1995年にはオウムと阪神大震災だけでなく、不況で銀行や信用組合が解体しかかったりして10年分の出来事がいっきに起こった印象がある。それは「震災前・震災後」という言葉で精神的にまるでちがってしまったという言い方にあらわれる。1995年という年はそれほどひとつの時代の転換が始まった年という意味を持っていると吉本は考えています。吉本も20世紀のあいだぐらいは、それまでのさまざまな価値観、〈善悪〉の基準、社会・経済的な枠組みというものが平穏無事にもつと思っていたと書いています。しかし突如その崩壊が始まった、ついに来たという感じなんでしょう。

そこで阪神大震災についてもオウムのサリン事件についても、それが時代の転換の象徴であるという観点から発言しなくてはならないと吉本は考えます。解明されていない新しい段階が姿を現しつつある。同時に今までの価値観は崩壊しつつある。そのなかで今までの崩壊しつつある価値観に基づいて考えたり発言したりしては大きく間違ってしまうと吉本は考えています。ここが阪神とオウムの出来事に対する見解の分かれ目になっていきます。これは今までのものが壊れはじめて、なにか新しいものが生まれようとする問題として起こっているんだと感じるか、今までどうりの価値観を信じて、その価値観の内部で判断し発言していくかの分かれ目です。

吉本がここが時代の転換点だと感じた背景には、吉本の辛抱強い勉強の蓄積からくる経済社会の把握があります。吉本は主観性とか党派性を排除できる経済学の方法として産業経済学を重視して社会経済の分析を行ってきました。すると産業経済学が教えるところによると、現在の日本のような先進国の社会経済は第3次産業が社会の中心になった状況だということになります。また所得のうち50パーセント以上が消費に向けられる状況だということになります。これらは客観的なデータであって党派性や主観性の入る余地はありません。吉本は自然科学的に経済を扱える産業経済学が客観的に社会の将来像を描きだすことができると述べています。

するとそれは「消費資本主義」という段階へ入ったことだと吉本は述べています。その消費が5割を超える資本主義、あるいは高度資本主義というのは何か。それは資本主義と呼ぶしか名前がないから消費資本主義とか高度資本主義とか言っているだけで、もはや資本主義とはいえない得体のしれない経済社会の段階なんだと吉本は考えています。

この消費資本主義段階に入ったということが、当然ながら社会の変化となって社会に生きる人々の価値観に影響を与えます。それは社会の表面にはなかなか現れずに、水面下の異和感や疑問としてどろどろ渦巻いている状態から始まります。その今までの価値観や『善悪』の基準がだれからも潜在的には疑われてあぶなくなってきていることのひとつのラディカルな現れだと吉本はオウムの事件を捉えています。そこから在来の価値観を否定するオウムや麻原彰晃の宗教倫理が登場します。吉本はこの対立を包括できる根底的な倫理が必要だと述べています。これは9.11に対する見解と共通しています。オウム、阪神大震災の年にもっと包括的な倫理が必要だと述べたその根底倫理が9.11後に「存在倫理」として提起されたということです。

消費資本主義段階の特徴は経済的にいうともうひとつあって、それは「価格」がその物本来の価値と関係なく浮遊しだしているということだと吉本は述べます。この「浮遊現象」は、所得の半分以上が個人が使っている消費であるという消費社会の特徴からやってくると吉本は考えます。そして価格が物の本来の価値から関係なく浮遊しだしているということは、『善悪』の基準も本体から離れて、なにが『善』でなにが『悪』なのかわからなくなっていることにつながると吉本は考えます。ここが経済性と観念性をつないで考察する吉本の特徴があらわれます。

「存在倫理」に至る吉本の考察を掘り下げて、そこから分裂病をはじめとする精神病の問題へつなげていきたいと思います。

すでに僕は知つてゐるのだ。神は僕を決して救はないだらうと。僕は自らの力を何ものかから引離さなければならない。それを分離しなければならない。(原理の照明)

自分が無意識に前提にしている観念から自分を引きはがすのはとても難しいものです。それを可能にするのは「あれ?」とか「おや?」というかすかな異和感の気づきです。その気づきもまた無意識の信じ込みで埋め込まれていきます。でもまた「あれ?」と思う。その時に、自分は今までおおく間違ってきた、あるいはだまされてきた、今度もどこかに間違いがあって、この「あれ?」という感覚はそれを教えるセンサーではないか?と考えることができればしめたものです。わたしは最近そうやってインプラントという歯医者さんたちが大推薦している新型入れ歯の危なさに気づきました。危ない危ない。気づきを大切に。それを引き離し、分離しなくてはならない。



おまけ

ありません。

僕は度々正義の味方になることを強制せられた。だが僕には常に一つの抑制があつて、正義といふような曖昧なものに与することを願はなかつた。それはひとつの知心とも言ふべきもので、僕が何を欲するかといふことを通じて、人間が如何なるものかを知らうとする心があつた。そして最も主要なるものは最もかくされてゐることを信じてゐた。(科学者の道)

ここで正義というものを曖昧なものと思わず正義の味方になってしまうとどうなるのか。それは「正義」という共同的な理念の陰に、自分の個人の心が隠れてしまうことになると思います。だから「自分が何を欲するか」とか、「人間が如何なるものか」というようなことはよく知ることができなくなってしまうでしょう。吉本に「正義」というようなものが曖昧なものだと教え、「最も主要なるものは最もかくされている」という「星の王子様」のキツネのような言葉を教えたのは「文学」だと思います。戦中戦後の共同理念の脅威と変転の時代に吉本が「一つの抑制」をもって耐え、思考を中断させなかったのは「文学」が個にこだわることの価値を教えたからだと思います。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。「存在倫理」という概念について解説しています。

「存在倫理」という概念を吉本が提起したのは、現在に流通しているさまざまな倫理を批判して、より根底的な「根底倫理」を提起するという意図からでした。「存在倫理」が提起されたのは9.11の同時多発テロ事件を契機としていました。9.11はアメリカという民族国家とイスラム原理主義の政治集団との対立だとされていました。その真偽は置くとして、9.11は民族国家と宗教の対立とみなされたということになります。アメリカという民族国家の倫理である国家の倫理と、イスラム原理主義の宗教の倫理とが互いを悪と呼んで対立し殺し合う、そういう世界状況だとされていたわけです。

国家と宗教については吉本は思想的原則がありますのでそれを解説します。それは「国家は宗教の最終形態である」というものです。吉本はヘーゲルマルクスの系統から宗教、法、国家についての関連を学んでいます。宗教が法になり、法が国家になるということです。したがって国家は宗教の最終形態だということになります。国家と宗教が対立することは、本質的にいえば宗教と宗教の最終形態が対立することで、いわば宗教が宗教と対立しているにすぎないと吉本は考えます。

9.11以後の吉本の著作「『ならずもの国家』異論」(2004光文社)から、この吉本の思想的原則を解説してみます。国家より法より古くから宗教はあります。未開や古代の時代から宗教はあるわけですが、吉本は宗教がだんだんに形を変えて現代にいたる、その変わり方にはふたつあると言っています。

第一は呪術的な宗教がだんだんに変わって、掟のような法になります。それがさらに国家だけにしか通用しない国法とか憲法になります。つまり宗教から法へ、法から国家へ、です。そういうふうに変わり、最後はいまの民族国家になります。だからいまの民族国家は宗教の最後の形だといえると吉本は述べています。

もうひとつの宗教の変わり方はかたちを変えない場合です。宗教のままでとどまります。それは伝統的な宗教そのもので現在でも残っています。キリスト教イスラム教が現在でも残っているように宗教そのものとして残っている場合です。

ではキリスト教イスラム教は古代からまったく変化していないのかというとそんなことはありません。宗教は長い時間のなかで少しずつ変化し、発展の段階をたどっています。吉本によればイスラム教とキリスト教はどこが違うかといったら、ほとんどちがいがないと言っています。また東洋的な宗教は自然と絡み合って汎神的なのに対し、西欧の宗教は一神教で、ここに差があるなどという学者がいるが、そんなことはないので、ただ段階の違いがあるだけだと述べています。

宗教が最終形態である国家になると、やがて宗教が分離して宗教は宗教、国家は国家と別々になる段階がやってきます。アメリカは民族国家にしてプロテスタントで、ほぼ分離しています。これに対して東洋は仏教やイスラム教が多いわけですが、国家とかなりくっついていて独立しがたいという特徴があります。それが東洋の特徴で、西欧のように国家と宗教がほぼ分離しているほうが発達の段階が進んでいるといえると吉本は述べています。日本は東洋の国としては分離しているほうだといえます。

原則的にいうと、呪術的未開の宗教が民族国家まで発達してかたちを変え宗教になったもの(国家)と、キリスト教みたいにかたちを変えずに宗教のままであるもの(宗教そのもの)、このふたつしかないと吉本は述べます。

これが吉本の宗教と国家についての思想的原則です。国家と国家、あるいは宗教と宗教、また国家と宗教が対立しあうという事態は常に起こりうることです。そこで問題になるのは国家と宗教の強固さです。たとえば中国政府がダライ・ラマ十四世をインチキ宗教として弾圧する、あるいは法輪功という気功団体をつぶそうとする。しかしダライ・ラマ法輪功も中国政府の大弾圧をもってしてもつぶせない強固さをもっています。この宗教の強固さは吉本によれば、国家の強固さと同じなんです。どちらも本質的に宗教だからです。中国政府がダライ・ラマチベット仏教を弾圧するのは、宗教の発達形態の最終形態である民族国家が、宗教の大昔からの形態を保っているチベット仏教をつぶそうとするもので、それは初めから無理、原理的に無理だと吉本は述べています。もしもダライ・ラマをつぶすつもりなら、中国共産党自身が先につぶれなくてはいけないと吉本はいいます。法輪功にしても同じことだと。

つまり宗教というものがもしなくなる歴史の段階がくるなら、それは国家がなくなるのと同じことだと吉本は考えています。宗教が国家と分離していようといまいと、宗教が壊れるときは、国家も世界的に壊れて失われるときと同じだということです。

だから中国政府に限った問題ではないので、9.11のアメリカ政府がイスラム原理主義をつぶそうとしても、爆撃で信仰している人々を殺すことはできるでしょうが、観念としてのイスラム教という古代からの宗教をつぶすことはできない。もしイスラム教がつぶれることがあれば、それはアメリカという国家がつぶれる歴史段階とともにやってくるということになります。

しかし民族国家というものもまだまだ大変に強固です。産業が発達し、どんどん国際的になって国境を無化してしまいそうなのに、国家は国益を主張して強固な壁を作っています。この強固さは宗教の歴史がもつ強固さと同じものだと吉本はみなしているということです。

話を戻しますと、9・11などで現象する国家と宗教の対立は、宗教のままで残存している宗教の倫理と、最終形態の民族国家まで発展した宗教の倫理が対立しているのだということになります。そしてそれはどちらかがつぶれるという決着はありえない。ともに強固に宗教が存在する段階の対立だからだということになります。ということはこの倫理的対立のどちらに組することもできないということです。それは宗教と宗教の対立だから、迷妄と迷妄の対立といってもいい。国家と宗教がともに持つ宗教性の外側に足が掛かる、国家や宗教の倫理性を包括できる倫理が存在しないと9.11のような問題に根底的な倫理的な判断をもつことができません。

「存在倫理」という根底的な倫理の提起は、人類の歴史そのものといってもいい宗教の未開の形態から、最終形態である現在の民族国家群までの歴史を対象的に扱えるような思想を必要としています。それは宗教や国家がやがては歴史的に終わっていくものだという透徹した歴史的見通しでもあると思います。宗教や国家がいつかは終わっていくその境界の向こうというものと、「存在倫理」とはつながっています。いってみれば「存在倫理」というものが姿をあらわす度合いは、宗教と国家が終わりの兆候を見せ始める度合いとみあっているということだと思います。

衰弱した精神にとつては休息が必要なのだ。それなのに僕はいつも酷使してゐる。すると増々肉体と精神とが不均衡になつてゆくのが判る。脳髄は敏感に衰弱し肉体はしこりのやうに悩む。僕は増々自分を窮地に追ひ込んでゆくようだ。(忘却の価値について)

まあ二十代の青年の吉本にこういうことを言われてもね・・・60歳を超えちゃうと、肉体が精神のセンサーだということがよくわかる。歯が抜ける、耳が遠くなる、目が衰える、そういったことは世界への通路が詰まっちゃうことなんですよ。しかし人の心身は不思議なもので、直接的な感覚の衰えはべつの何かを目覚めさせますね。それがいわゆる呆けと呼ばれるものだとしても、それもまた人の心身の領域なんだと思います。それを面白いと思えないと老人介護の世界は同情の世界に過ぎなくなりますね。



おまけ

ありません。

○科学者とは、科学に没入し、次に否定し、次に肯定し、これを超克した人にのみ与へられる名称である 科学に没入したのみの人を科学者とは言ひ得ぬ それは泥と飯とを前に並べられて泥を撰ばずに飯を喰ふ小児をもつて栄養学者と言はれないのと同日である。(科学者の道)

科学にしても栄養学にしても知識の世界、知の世界ということですね。吉本は知の世界に没入していくんですけど、どうしても没入しきれないものがある。知の世界よりも現実の世界のほうが大きいと感じるんでしょうね。それは特別な現実じゃないんで、ごくありきたりの日常という現実のほうがあらゆる知の世界、あるいは表現の世界よりも大きいという感覚です。これは理屈で説明しきれるものじゃない、というか理屈で説明しきれたらそれは知の世界そのものですから。直感というしかない。

没入しても没入しても、触れえないものがありきたりの日常のなかにあると感じる心ですね。特別な生死の境とか、エロティシズムの極みとか、深い瞑想のなかとかではなく、普通の買い物とか育児とか会社仕事とかそういう平凡な日常に未踏の領域や謎や神秘を感じ取ります。だから平凡な生活圏をなめることはないし、嫌悪もしないし、知の側から支配できるとも思わないし、啓蒙し導く対象とも思わないし、極端に悲惨で退屈だとも思わないんだろうと思います。それが吉本にとっての知の外側にある日常、あるいは大衆の世界だと思います。

そんなところで吉本の分裂病の解説に移らせていただきます。「存在倫理」の概念の解説の続きです。

「存在倫理」とか「存在の倫理」という言い方で吉本が提起しているのは、現実の事態とか事件とかを判断する場合の倫理的な基準を、現在よりもっと根底的なところに移したいということです。吉本がこの概念を提起したのは、9.11のアメリカでの同時多発テロ事件のあとでした。しかし9.11の事件だけでなく現在のあらゆる事件に対する判断の問題として「存在倫理」は考えられています。

9.11のような国家間、あるいは国家とテロリスト間の衝突の事件でも、男が小学校に乱入して小学生を刺殺したという事件でもいいですが、そういう事件が起こったときどのように倫理的な判断を下すかが問われます。つまりブッシュとビンラディンどちらが悪いのか、とか、小学生を刺殺したのは悪いに違いないが、その犯人は精神病者なのか、あるいは正常な人間の計画的な犯行なのか、そんなふうに倫理的な判断が下される過程があります。吉本はそういう現在行われている倫理的な判断を批判しています。

たとえば9.11でいえば、アメリカとビンラディンイスラム原理主義者とはそれぞれ相手を否定していますが、吉本に言わせればそれは近代主義的な「迷妄」と、原始的な宗教的「迷妄」が戦っているだけだということになります。近代主義的なアメリカのような国民国家の指導者の倫理には、吉本にいわせれば国家の発展の段階論的な認識が欠けているということになりましょう。つまり自分たち欧米の国々でも段階をさかのぼれば、現在のイスラム教国や北朝鮮のような宗教的な独裁の状態を経てきたという認識がないということになります。そのぶん相手のイスラム国の状況が理解できない。我がこととして考えないからです。自分の国や民族も歴史的に体験してきて、今も近代的な社会のなかに残存している古代的な、あるいはアジア的な要素の問題としてあるというふうに我がこととして考えることができず、イスラム教国は遅れていて迷妄だという非難しか生まれないわけです。

いっぽうでイスラム原理主義の側は、イスラム教を守るために異教徒たちと戦うことを「聖戦(ジハード)」と呼び、聖戦で命を落としたイスラム教徒は天国に召されると信じています。吉本によれば、こうした人命よりも宗教的な行為に価値を置く考え方は原始的な宗教的な迷妄です。

9.11についてはアメリカ対イスラム教のテロリストという構図ではなく、アメリカの支配層の自作自演ではないかという考え方を私はしています。だから吉本の考え方をそのまま肯定するわけではありませんが、「存在倫理」という概念の説明としては意味のあることなので、吉本の述べるとおりに解説しました。

9.11を例にした吉本の説明では「存在倫理」の必要性は次のようになります。現在の社会の政治認識における倫理、社会認識における倫理、法認識における倫理など、人間を取り巻くさまざまな倫理的要因というものがあります。なにか事件が起こった時に倫理的な判断が下されるさまざまな基準があるということです。しかし、吉本はそうした倫理的な要因に基づく観点からは、国民国家が行う戦争は永久の
「善」であり、イスラム原理主義のような未開社会の時代と伝統的につながった宗教を信じるテロリストたちが行うテロは「悪の権化」であるという事実認識しか出てこないと確信すると述べています。つまり現在通用しているさまざまな倫理的な判断をかきあつめて考えても、近代主義的な国民国家の戦争を否定できないだろうということを言っています。

吉本がこの論議をしているのは「超『戦争論』(2002アスキーコミュニケーションズ)」という本のなかで、吉本の戦争論の結論として言われているわけです。吉本はこの本で同時多発テロ事件に登場したアメリカとイスラム原理主義戦争論、そして日本国内でそれに刺激されて出てきた小林よしのりをはじめとする様々な「戦争論」を批判しています。そして現状では戦争自体を根底的に無化できる思想はないと証明したんだと思います。戦争自体を根底から否定し無化できる思想はシモーヌ・ヴェイユの思想しかないと吉本は考えていると思います。そしてヴェイユの思想を根源で支える「匿名の領域」の思想から「存在倫理」の思想を提起しています。

国民国家という存在もまたけして恒久的な存在ではなく、過渡的な存在形態に過ぎません。そうした国民国家の特殊性に極限されたところから派生する政治的倫理、社会的倫理、法的倫理などは、すべて相対的なものにすぎないと吉本は述べています。だからそれとは違う根源的次元で論じなければならない。唯物論でも観念論でもない、人間存在の倫理を根底から問う「根底倫理」を必要とする時代に入ったとないかといいたいと吉本はいいます。つまりこの「根底倫理」あるいは「存在倫理」というのは、吉本が展開してきた社会や国家の歴史の思想の全重量をかけて、現状のもっともきわどい現実問題に向けて提起されている概念です。

今のままでは世の中で起こる犯罪や事件を解決するには、それこそ法律家と精神科医がいればいいということになってしまう。人間ってそんなに簡単なものなのかよ、って思っちゃうと吉本は言っています。では現行の法律や社会倫理という観点から論じる以外の根底的な論じ方とは何か。また次回で。

○矛盾的自己同一の世界では、それに於てあるものが相対立し空間的に一である 即ち世界は多の一である かかる方面に於ては何処までも物質的であるがそれが一の多として時間的であるとしては生命的である 而してそれが何処までも時間的として多否定的なる時世界は全体的一として自己形成的となる かかる場合個物は世界を宿すものとして個体的となり身体的となる かかる方向に於て我々は意識的となるのである 意識の世界は現はれるのである。(科学者の道)

矛盾的自己同一というのは西田幾多郎の概念だろうと思います。読んだことがないので解説はできませんが。手に負えないのでパスさせていただきます。

おまけ

ありません。