下街で銀行がビヤホールに変つてゐた。人たちは片手落ちな交換をやるために昔のやうにそこを出入してゐた。(下町)

片手落ちな交換というのは、要するに銀行家や資本家をもうけさせるような不利な交換を庶民がしているということでしょう。それは戦後左翼思想に目覚めた吉本の抱いた思想的な反感なんだと思います。これもひとつのNOの感受性で、戦後多くの人々が左翼思想、マルクス主義に共感し吉本と同じ感性を共有したはずです。しかしNOのなかにさらにNOがあり、否定は次第に孤独な執着になっていきます。それに果てしなく耐える庶民の人生というものはありうるのか。少なくとも吉本の人生はそのようなものとして存在しています。吉本と手を組んだり挨拶を交わしたりはできなくとも、誰もが自分のNOの中で吉本と出会うことができる、そういう存在です。

おまけです。

インタビューより (ほぼ日刊イトイ新聞「日本の子ども」)
最も重要なことは何かといったら、自分と自分が理想と考えている自分との、その間の問
答です。「外」じゃないですよ。つまり、人とのコミュニケーションじゃないんです。