時よ。僕はいまおまへの移行を惜む。且ては速やかであれと願つたこともあつたのに。現在は遣りとげなければならないことがいつぱいだ。あまりに浪費してきた罰で歩みは遅く、おまへが沈んでゆく日となつて、雑林や農家の竝(なら・並)んだむかふへ馳せてゆくとき、僕は追ひかける勇気をなくしてじつとしてゐる。(〈少年と少女へのノート〉)

この文章は1950年に書かれたようです。吉本は1924年生まれだから26歳くらいの時の文章です。もうひとつ1966年に書かれた文章を引用します。60年の安保闘争を体験した後の吉本の文章です。過ぎていく時に対する感受性が同じようでありながら、さらに明確に深く彫りこまれていることが分かります。

「なぜ書くか」  吉本隆明
(略)
1960年以後において、わたしの<書く>という世界を誘惑したのは、この世界には思想的に解決されていない課題が総体との関連で存在しており、その解決はわたしにとって可能である問題を提起しているようにみえたという契機であった。わたしの<書く>という世界は変容し、<時間>との格闘に類するものとなった。わたしの<書く>という世界に無関心でありながら、ただ攻撃するためにとりあげる愉快な人種と、ときとしてある月一冊の月刊雑誌を拾いよみしそれをつぎの瞬間には投げだして忘れてしまうといった、まったく健康な読者とは、わたしの内的変容に気付かなかったろうし、見当を外れた攻撃を加えてくる場面にも遭遇した。わたしたちはだれも自己以外のものに自己の理解を求めることはできない。それは許しがたい傲慢である。釈明することは一切無駄なことである。衝かれるような<虚>を内部にのこすことは表現者にとって恥辱である。1960年以後において、わたしは一服の煙草を吸い、余暇には遊園地や動物園にゆき……ということとおなじ余裕をもってしか、これらの人種や読者につき合ったことはない。わたしは、この世界にわたしが解決可能なようにみえる課題にむかうかぎり、いつも余裕がなかった。わたしは<時間>と格闘し、その格闘において身をけずりとられてきたとおもう。<わたしに残された生!>という感慨をあるときふと思いうかべたりするほど、わたしは老いぼれてはいないし、<わたしに残された生!>という焦慮にのたうちまわるほど若年でもない。ただ、<わたしに残された未踏!>という思いは静かな緊迫した時間のうちに、わたしの<書く世界>を、ときとして訪れることは確かである。すでに、そこでだけわたしは本来的である。しかし、わたしが喰い、生活の資をもとめ、日常生活を繰り返しているのが事実であるように、これからもわたしの敵やわたしの優しい知友や、わたしと余裕をもてるほど隔たった文学現象の世界ともつきあってゆくだろう。
初期ノートの文章にあるリルケとか堀辰雄のような抒情詩人の模倣の文体は消えて、吉本隆明の文体が確立していると思います。科学者が物質の本質を研究するように、吉本は観念の世界の本質を追及しようとしていると思います。もはや誰かの表現を批評するというのでもないし、誰かの意見に反論を述べるというのでもない。自分ひとりで巨大な闇のような普遍的な真実を解明しようとしています。しかしその誰とも分かち合えない孤独な本来性を維持する自分にも、日常生活があり人間関係があり敵や無縁な人々があり社会があるということにも充分に思想的な神経が行き届いている文体だと思います。
身を削る時間との格闘というものの内実のひとつの側面を描いたものとしてもうひとつ吉本の詩の一部を引用してみます。

「この執着はなぜ」          吉本隆明
この執着は真昼間なぜ身すぎ世すぎをはなれないか?
そしてすべての思想は夕刻とおくとおく飛翔してしまうのか?
私は仕事をおえてかえり
それからひとつの世界に入るまでに
日ごと千里も魂を遊行させなければならない

社会とも折り合えないし、地域とも親族とも親兄弟とも嫁や子ども恋人や友人とも分かち合うことができない自分にしか分からないかたくななNOというようなものがある。それは感性として誰のなかにもあるんじゃないでしょうか。特に若いときには強烈にあって、自分でももてあます。ひきこもったり暴れたりしないとなだめようがないこともある。そのNOに理屈をあたえ思想を与えても、いつのまにかとおくとおく飛んでいってしまう。やがては年を食ってしわと脂肪が増えるたびに、また家族や職場や地域の人々との関係や愛憎や親密さが増すたびに、その強烈だったNOも薄らいでいってしまう。ときどき優れた芸術や、若いやつらの表現に触れると脂肪の奥のじぶんのNOがふとうずくけど、またあっという間にとおくとおく飛び去っていく。そしてなんとなく魂が抜けたような空虚が残る。きっとそのNOのなかにだけ、自分というものの秘密がある。だとすれば他の人の秘密も他の人にしかわからないNOのなかにあるのだと考えます。