風は吹くのではない。空気が動いてゐるのだ。だから僕は言はう。今日空は荒れてゐると。(〈少年と少女へのノート〉)

風が吹いてくるというのは私たちが馴染んでいる感受性の言葉です。それに対して空気が動いているという感受性は馴染みがない。それは科学的な知識として一般的に理解できるものですが、知識にとどまって日常的な感受性となっているものではないわけです。それをあえて書いているのは吉本が理科系の人で科学知識が身についているせいでもありますが、それだけでもないと思います。
吉本は私たちのよく馴染んだ日常的な感受性そのものに対して徹底的に論理付けをして、そのことによって戦争中に全身全霊で信じ込み、敗戦によって無理矢理死なされた自分の奥底の何かを明らかにしたいのだと思います。日常的な自然や人間関係や文芸などに対する馴染んだ感性と矛盾を感じないからこそ国家の遂行する戦争に全身全霊で巻き込まれていったわけです。

不特定多数の<大多数>の大衆が、感性からはいって政治的に天皇(制)の支持にのめりこんでいった契機は、日常の生活のくりかえしのなかで当面する人間関係や自然にたいする感性が、生産の場面でも衣食住について出遭う感じ方においても、天皇(制)にたいする距離や遠近の在り方と、かれらの内部で似ているということであった。

たとえば日常生活のなかで、関係がうまれてくる他の人間にたいして「信頼と敬愛」をもたなければ円滑にいかないとかんがえたとすれば、この「信頼と敬愛」の中身が、ちょうど天皇(制)にたいする「信頼と敬愛」の中身と位相的におなじなのである。また、自然や文学についてかんがえている本質と、天皇(制)についてかんがえている本質とは中身が似ているのである。
この位相的な同一性が、日本人であるということと、天皇(制)にたいする感性とを同一のものとみなすという最初の錯覚をみちびきだしたということができる。そして最初の誤解と最初の誤解を脱する方法は、この微かな感性的徴候からはじまるといっていい。
            吉本隆明 「天皇および天皇制について」より

私たちの日常を空気のように取り巻く感受性というものと共同観念としての国家とか天皇というものをどう結びつけたらいいのか。その最も大きな思考の枠組みとして吉本が依拠したのはヘーゲルマルクスのアジア理解だったと思います。

世界史的な視野から<アジア的>な<自然>に言及したのはヘーゲルであった。ヘーゲルはまず<アジア的>な<自然>の概念を黒人アフリカの<自然>と区別してみせた。<アジア>では<自然>は人間の自然意志の否定のうえに成り立っている。だから<アジア的>な<自然>の概念は絶対的な存在(あるいはその力)の概念と手易く一致してしまう。それ自体が人間の自然な意思の否定につながっていることをはっきりさせた。「アフリカでは自然的条件は世界史に関してむしろ消極的であったが、アジアに於いてはそれは積極的である。従ってまた優れた自然観察はアジア人に帰せられる」(ヘーゲル「世界史の哲学」岡田隆平訳)

中国やインドから農耕<アジア的>な<自然>規定を受け入れたときに同時に制度的な<自然>規定も受けとった。制度的な<自然>規定の<アジア的>な性格についてはヘーゲルを継承したマルクスが巧みに把握している。ひと口にいえばそのひとつは「国王が王国内のすべての土地の単独唯一の所有者であること」(一九五三年六月エンゲルスマルクス書簡)である。もうひとつのことをいえば「自然発生的な共有の形態」(「経済学批判」)をとった太古からの共同体の自足性をそれほど壊さずに「貢納」を吸いあげてその上に国王の共同体をうわ乗せしたということである。
               吉本隆明 「歳時記・季節論」より

私たちの日常的な感性自体が支配秩序を支えているアジア的な特質であるという発想をヘーゲルマルクスから得て、吉本が大きな思考の方法として取ったのは天皇制以前の日本を解明することで天皇制を対象化するという道であったと思います。吉本はそのように大きく時空の枠を取り、実にこつこつと思考の忍耐力をもって天皇制を頭上に抱いた私たちの社会の総体を対象化していきました。そしてその果てである現在の中に、日常的な感受性の中に自然が消滅していく時代の感性の問題を取り上げています。
吉本は20代、30代の若い詩人の作品を30冊近くまとめて読んだ感想として、その特徴を(「無」に塗りつぶされた詩)と言っています。

いってみれば「過去」もない、「未来」もない。では「現在」があるかというと、その現在も何といっていいか見当もつかない「無」なのです。

神話が必要な人物あるいは勢力というのは、過去に栄光があったとか、これから栄光ある場を築いていくんだという、どちらかの予想があることが、特徴だと思いますけど、そういう人物あるいは勢力も想定されていないし、さればといって、この詩は未来ないし過去の栄光を象徴している詩として神話に使えるという、そういう詩もない。これはたいへんな状態だねといえば、もうたいへんな重要な状態だと思います。

つまり日本の詩歌というのはつねに自然とかかわりをもっていて、自然を抜かしちゃった日本の詩はどこにもないわけです。そういう詩は朔太郎にもない。中原中也立原道造といった優れた詩人だって、自然を抜かしちゃったら詩にならない。そういうことを踏まえていわざるをえないわけですけど、いまの二十代、三十代の大都市住まいの若い人たちを寄せ集めてくると、自然というものがなくなっちゃっている。自然に対する感受性がなくなってしまっているわけです。
             吉本隆明 「日本語のゆくえ」より

外国の大家の理論を学んで機械的に現実を解説するといった知識人と違い、常に自らの実体験や実感、そして現実の社会的事象や個々の文学作品の丹念な読解を膨大に積み重ねて理論を作ってきた吉本が、自分の青年期壮年期の時代とまったく異なった新しい時代を感覚で捉えています。初期ノートの頃から、この現在への感受性までたどり着いた吉本の生涯と作品こそが私たちの社会の財産です。