「上昇する倫理(道徳律)は必然的に現実化に限界を与へることである。下降する倫理は必然的に、作用の限界を無限にまで追ひやることを意味する。人間は、自らの作用化に限界するとき、必然的に他を限界し返へすものである。人間が自らと他とを交換し得るのは死においてである。何故ならば、死においてはじめて人間は等質化するからである。死において自由の問題は無限大に発散し消滅する。作用化された死においてそれ故自由があるのである。倫理を無償化することによって、我々は限界を無限に追ひやる。それは、自己を限界しないことによって他を限

なんとも判りにくい文章で困りますね。しかし借り物でなく自分の力で考えていくとこんなふうにギクシャクとした手作りの論理になるものです。この文章は「形而上学ニツイテノNOTE」という章全体で吉本が自己規定している概念を追っていかないと、ここだけ読んでも判りません。だいたいどういうことが言われているかというと、なになにするべきであるという倫理を上に向かっていく倫理だと考えると、その反対に降りていく倫理、つまりべつに何かをするべき、というものはないという倫理のことを言いたいのだと思います。それは倫理を無償化するという言葉でも言い換えています。今までの社会はずーっと食うために生きるというのが倫理だったわけです。しかし初めて人類は先進国から大衆的な規模で、食うために生きるという倫理から解放されつつあります。するともう上に向かう倫理よりも降りていく倫理が登場するわけですよ。今までのいっさいの社会的な支配的な倫理から降りていく倫理です。それは文学の倫理と似ています。文学がどこへいくかわからないように、社会的な降りていく倫理の行き先もわからないわけです。無限のほうに広がっていて、とりえは他人を縛らないことです。それは文学が無限の前で手を振っているようなあてどのないものであり、文学が他人を指図するものではないことと同じだと思います。

おまけです。
「なにに向かって読むのか」         吉本隆明

(略)
わたしの読書は、出発点でなにに向かって読んだのだろうか。たぶん、自分自身を探しに出かけるというモチーフで読みはじめたのである。じぶんの思い患っていることを代弁してくれていて、しかも、じぶんの同類のようなものを探しあてたいという願望でいっぱいであった。すると書物のなかに、あるときは登場人物として、あるときは書き手として、同類がたくさんいたのである。自分の周囲を見わたしても、同類はまったくいないようにおもわれたのに、書物のなかでは、たくさん同類がみつけられた。そこで、書物を読むことに病みつきになった。深入りするにつれて、読書の毒は全身を侵しはじめた、といまでもおもっている。
ところで、そういう或る時期に、わたしはふと気がついた。じぶんの周囲には、あまりじぶんの同類はみつからないのに、書物のなかにはたくさんの同類がみつけられるというのはなぜだろうか。ひとつの答えは、書物の書き手になった人間は、じぶんとおなじように周囲に同類はみつからず、また、喋言ることでは他者に通じないという思いになやまされた人たちではないのだろうか、ということである。もうひとつの答えは、じぶんの周囲にいる人たちもみな、じつは喋言ることでは他者と疎通しないという思いに悩まされているのではないか、ただ、外からはそう視えないだけではないのか、ということである。後者の答えに思いいたったとき、わたしは、はっとした。わたしもまた、周囲の人たちからみると思いの通じない人間に視えているにちがいない。うかつにも、わたしは、この時期にはじめて、じぶんの姿をじぶんの外で視るとどう視えるか、を知った。わたしはわたしが判ったとおもった。もっとおおげさにいうと、人間が判った気がした。もちろん、前者の答えも幾分かの度合いで真実であるにちがいない。しかし、後者の答えのほうがわたしは好きであった。目から鱗が落ちるような体験であった。
わたしは、文章を書くことを専門とするようになってからも、できるだけそういう人たちだけの世界に近づかないようにしてきた。つまり、後者の答えを胸の奥の戒律としてきた。もし、わたしが書き手としてすこしましなところがあるとすれば、わたしがほんとうに畏れている人たちが、ほかの書き手ではなく、後者の答えによって発見したじぶんをじぶんの外で視るときのじぶんの凡庸さに映った人たちであることだけに基づいている。