「希望なくしては人は死の中にある。しかもあの貧しい人たちは死のやうにつらい仕事のなかに、生活のなかに、僅かに死を回避してゐるのだ。死の心にかへる死の労働。」(風の章)

これは仕事とか労働というものを貧しい人たちは死のようにつらいことをしていると捉えているわけです。死のようにつらいから心を無感覚にして耐えている。じゃあ無感覚になれば吉本が25歳くらいだった頃の敗戦後の社会に希望の感覚があるかというと、ありゃしないということです。感覚を解放したって希望のない死のような心になるのだけれども、貧しい人たちは解放する余裕もない無感覚な死のような仕事の毎日のなかへ気をそらして回避してるということでしょう。つまりどっちみち死のようなもんしかない、それが当時の時代と生活だということになります。まさに夢も希望もない考え方をしています。
私はこの吉本の文章は仕事とか労働とかいうものを通常考えられているより少し深く考えるきっかけになればいいと思います。仕事や労働を死のようなものと考えるか、そんなことはない、やりがいがあるし楽しいしお金も自由になっていいもんだというふうに考えようとそれは自由だと思いますし、人それぞれの仕事の事情にもよると思います。世の中には仕事をすることが好きだという人もたくさんいるでしょう。
ちょっと引用します。漫画家の西原理恵子の面白い本からです。

「この世でいちばん大事な『カネ』の話」       西原理恵子
働くっていったい、どういうことだと思う?
子どもから見たら、大人の世界はすごくたいへんそうに見えて、何だか「感じが悪い」って思ってるかもしれない。
でもね、身近な大人に聞いてみてごらん。初めてお給料をもらったときのことや、お風呂つきの部屋に引っ越したときのことを。
きっと、ちゃんと覚えていると思うよ。だってそれは、働いて自分のお金でつかんだ「しあわせ」、だから。
親から「あなたは食べさせてもらってるんでしょ」「学費払ってあげてるじゃない」と言われちゃったら、もう何も言い返せない。
子どもって、うんと不自由だよね。親の説教の中でも「お金」の話を持ち出すのって、子どもにしたら「反則だ!」って言いたいくらいだと思う。頭に来て、家を飛び出したところで、お金がないと、そう遠くにも行けない。
そう考えると、大人って、自分が働いて得た「カネ」で、ひとつひとつ「自由」を買ってるんだと思う。
単純な話、働いてお金が稼げるようになれば、できることや行動範囲だって広がっていくからね。「大人になる」って、だから楽しいことなんだよ。
(引用終わり)
自分の実感をこめてわかりやすい言葉で鋭いことを言っていると思います。確かにこれは真実を言っていますよ。働いてカネを稼いで自由を買うことができる。大きく稼げば大きな自由が買える。そしてこの言い方は大人になるということに心理的につまづいている若い子に、大人とか社会人とかを肯定していく通路を示していると思います。
じゃあ吉本は暗すぎることを言っているということになるでしょうか。そうでもないと思います。なんでそうでもないかというと、ひとつには自由を買うといっても家族を養い食うにぎりぎりの金しか稼げない状況を強いられていたら楽しいともいっていられないということです。もうひとつは、個人として頑張って才能にもめぐまれて大きく稼いで大きな自由を買えたとしても、それは個人としての自由であって、その社会に希望がないとかその時代に悲惨なことがいっぱいあるということをどうすることもできないという点です。
しかしそれでもなお、西原理恵子のいうように仕事で稼げるようになれば自由がより大きく買えるということもとても大きな真実だと思う。吉本がこの文章を書いた当時の貧しい敗戦国家の状態から経済大国になっていったのは、西原理恵子がいったような真実を多くの人が心の中に実感としてもっていて仕事を頑張った結果だと思います。
仕事で稼ぐ「自由」というものが大切です。それが自分個人や自分の家族だけの自由にすぎないとしても。自分や自分の家族はなによりも大切なものだから。小さな台所よりも大きな台所。小さな車よりも大きな車。伊豆や箱根よりも、たまには海外でのんびりしてきたい。おしゃれもしたいし、高い化粧品もほしい。なによりもお金の心配ばかりに心を縛られずに、自分や家族と向かい合っている時間がほしい。それが私的な自由というもので、それを支えるのは金銭であって、金銭は働いて得るか投資で得るしかないわけです。
じゃあ汗水たらさないでも、投資で稼ぐのが手っ取り早いというのが現在の世界を吉本の文章の時代から区分する大きなポイントだと思います。それは人が働いて作り出す品物やサービスの経済よりも、カネがカネとしてだけ国際的に動き回る株や為替や商品相場などの世界が膨大になった時代を意味します。そして現在、その実体経済を遥かに上回るマネー経済の世界がアメリカから崩れ始め、どこまで崩壊するか分からない現状となっているわけでしょう。もうどこに人生や仕事や自由の根拠を求めたらいいかさっぱり分からないくらいの大変動が目の前に進行していきますよね。
たとえていえば、一家のお爺さんは吉本世代で貧しい工員からかんばって家を買って家族を養って生きてきたとします。お婆さんも一緒になってそれを支えた。生きるだけで精一杯だったし、家族が生き抜くこと、少しでも貧しさから抜け出すことが生きる倫理だった。その息子は団塊の世代で、ある程度豊かになった生活と時代の中で仕事もするけれども文化的なものも吸収する余裕があった。若い頃はエレキを弾き、アングラ芝居に夢中になり、マンガや映画もたくさん見た。そして団塊の世代の息子の世代は無意識のうちに、この社会がこつこつ働く人間が主役ではなく、膨大な金融の世界の支配者によって動かされていることを感じている。だからこの目に見える実体的な社会、ビルだのマンションだのファミレスだのはもっと膨大なものからいつ踏み潰されるかわからないバーチャルな世界だという無意識から来る感覚を抱いていると思います。そしてこの世代の目端のきいた若いやつの中には、こつこつ働き人間関係の苦労をたらふくして会社の経営陣への出世を目指すより、マネー経済の世界で投資で稼ぐ方がスマートで大金を得られると考えるやつも出てくる。ほりえもんのように。そして現在生まれてきたばっかりの、あるいはこれから誕生する新世代は、マネー経済自体のバベルの塔ががらがらと崩壊する時代を経験していくでしょう。その中で新世代が何を感じるかは予測ができません。そしてどこのありふれたひとつの家の中にだってこのくらいの世代間の違いがあり、それは埋めようもないほど隔たったものです。家族というものが成り立たないほどの隔たりです。
勤めたり商売したり公務員になって働くということ、そして次第に庶民生活の中にも大きくなってきた投資とか金融ということ、生きるために働くという面と、いや生きるために働くのは収入の半分であって残りの半分は子どもの教育費や文化的な生活向上のために働いているんだという面と、個人的な家族的な自由を広げるために働いているということと、そうした個人的な家族的に勝ち取った自由さえ大きく押し流したり押しつぶしたりする社会や時代の激動というもの、そうした大きな渦のようなバラバラの要素が各人の胸の中にあり、それぞれの置かれた社会の中の立場や事情があり、要するに例えばもっと若い世代に向かって仕事とは、働くこととは何か教えてやってくれと言われても、自分自身がさっぱり分からなくなっているのが実態じゃないでしょうか。メディアにはいろんな意見が出てくるし、それぞれ半分は納得するけれど、あとの半分がなんか釈然としない。あまりにも早く移り変わる景色を絵に描いて見せろと言われているように。
要するに結論は私にはよくわからん、ということで、そんな結論なのに読んでいただいて申し訳なく思います。しかしまあ自己弁護すれば、わからないことはわからないということも大事なんじゃないでしょうか(_ _,)/~~  いい年こいてそんなことも分からないのか、俺はわかってるぞという方がいらっしゃったら立派なもんだと思います。