「僕は一つの基底を持つ。基底にかへらう。そこではあらゆる学説、芸術の本質、諸分野が同じ光線によって貫かれてゐる。そこでは一切は価値の決定のためではなく、原理の照明のために存在してゐる。」(原理の照明)

なにが原理なのか、一番普遍的な真実はなにか、ということが吉本の若い頃からの関心であったと思います。私が吉本が提出した原理的な思考のなかで、いま一番気になりよく考えるのは、吉本のもとの文章が見つからないので引用はできませんが、要するに知というものが作られた時に、その知や知を作ったひとより、作らないひとや作ろうともしないひとの方が大きい存在なんだというような意味のことです。あるいは思想というものは、思想を生み出したひとより生み出さないひとたちのほうが上にあると考えるべきものだというようなことです。
これは実感にかなうところがあります。私たちは必然的にものごとにぶつかってものを考えますが、考えることによって狭い小さなものになっていく感じがします。だからもっと良い考え方をしようとするわけです。しかしいかように考えようとも、考えないことのほうがもしかしたら上にあるのではないか、規模の大きいものはそこにあるという感覚はとても重要じゃないかという感じがします。それは東洋的な思想じゃないかと思います。どうしようもなくコミュニケーションが取れないような苦しい体験をするときに、吉本の言葉がよみがえりそのたびになんかハッするわけです。これ以上はよく分かりません(_ _,)/~~  

おまけです。これは一流のインテリでありながら工場の工員として働くことを選んだシモーニュ・ヴェイユの工場体験についての吉本の覚書です。

シモーニュ・ヴェイユについてのメモ」     吉本隆明
覚書
同じ作業が毎日繰返される労働で感じる閉塞感は独特のものだ。こんなことを一生繰返すのか、それにどんな意味があるのかというような。そしてどこかにのびやかな環境があって、明るい窓があいた室内で働くことを空想する。新しい作業にぶつかるときの、未知の不安感と抵抗感も大へんで、はやくこの作業を内在化し、その上に出たいと思う。やっとその作業に習熟したあとでは逆に無限におなじことを繰返す停滞感がまた、やってくる。
わずかな給料のためにこんな閉塞された場所で、毎日の作業を繰返し、生涯を朽ちさせるのなら、半分の給料でいいから、やりたいときにやればいい作業の方がいいと考えたりする。だがそういう作業は、半分の給料さえ支払われない。
金銭を獲るには労働しなければならないことを、とことん思い知らされるこの生活社会の機構を、ヴェイユは「奴隷的な条件」とここで呼んでいる。それは誇張した表現だが、必然みたいな否応ない抑圧だという感受の仕方からは「奴隷的な条件」といってもおかしくない。遊びの気分で労働できる解放感が人々の理想でなかったら、芸術などはとうにこの社会で亡んでいるに相違ない。だからロシヤや中国では、遊びの気分で労働できると思わせることを本質とする芸術・文学のようなものを、労働に奉仕するよう要求したりする。だが遊びみたいな気分で労働できることは、人間の理想なので、べつに特権としてずり下げる根拠はない。