「僕の労力は何ら交換価値を具へてゐない。やがて人生の機構は僕に教へることになるだらう。それでは死ぬより外ないことを。だが、僕はあのドストエフスキーの述べた原理だけは棄てはしないだらう。人は、或る目的のために人生を費やしてはならないといふ原理だけは……。そこで結局は、僕はある交換価値を目的として労力を費やしてはならないといふ原理に到達する。斯くて僕は生活するためにのみ仕事をし、それ以外のことのためには交換価値なき労力を捧げねばならない。」(風の章)

20年位前に吉本はさかんに先進国の社会の分析を発表していました。先進国とは何かというと、社会というものは特に欧米や日本では農業や漁業などの第1次産業が中心の近代以前の社会があり、そこから工業が中心の近代社会に移ります。そして工業(第2次産業)主体の経済もやがて衰退していきます。なぜなら工業はモノ作りですから、あらかたの橋とか道路とかビルとかが出来上がってしまえば一国の工業の成長は次第に衰えるわけです。そして工業化が終わって、モノ作りではない運輸、小売とか金融とか情報、教育、医療などのような形のないサービスを提供する第3次産業が主体となる社会が登場します。これがいわゆる先進国だということです。
そういう先進国の特長を吉本は分析していますが、その中で今回取り上げたいのは、要するに先進国になると食うために働くという理由が半分以下になると指摘です。一家の家計の支出のうちで、これを支出しないと生きていけないという食費とか家賃、光熱費、いわゆる衣食住の支出を必需的支出と呼び、それ以外の支出しないでも生きてはいけるけれども、文化的な暮らし、個性的な暮らし、人から見下されない暮らし、夢のある暮らしには必要な子どもの教育費とか、レジャーとか、ファッションとか文化教養のために使う支出を選択的支出と呼びますが、先進国になると必需的支出の割合は一家の支出の半分を割る傾向にあるということです。これは面白い分析なので自分の生活に当てはめて考えてみられるといいと思います。あなたや家族が家賃とか最低限の食費とか最低限の衣類とか、もうこれを節約したら病気になるかホームレスみたいになるという支出はいくらくらいですか。給料からその最低限の必需的支出を引いた残りは選択的支出だということです。それは使わなくたって生きていけるけど、やっぱたまには旅行もしたいし、流行の服も書いたいし、本や映画も見たいよねという支出ですね。その割合が半分以上ならあなたは典型的な先進国住民です。
選択的な支出が増えるということは、生産よりも消費が主体の社会になっていくということです。消費が生産を左右する社会です。消費というのは働いていない時間にするものですから、消費が主体になっていく社会というのは働く割合が減る社会です。言い換えれば休暇の多くなる社会、週休1日から週休2日へ、やがて週休3日が当たり前という社会に移っていくということです。今は世界不況だからリアリティがないですけど、ここはひとつ社会というものをもっと長い目で考えて、もしも週休3日以上、つまり働く日よりも休む日のほうが多いのが当たり前の社会がやってきたらどうなるか考えてみてください。それは生きる意味という感覚が決定的に全社会的に変わっていくことを意味すると思います。だって働かなきゃ生きていけないという理由がよく考えると一昔前の理由であって、今は働いているけども、その本当の理由は子どもの教育費のためだったり、もっとオシャレで自分らしい生活のためだというように変わってきているからです。しかしその選択的な支出の理由は、あるいは消費主体の生活の理由は、食わなきゃ生きていけないというような一昔前の切羽詰った理由じゃないですから、あやふやといえばあやふやで、なんだかつかみどころのない生きる理由じゃありませんか。どうですかそこらへん(^_^)3
この世界的に先進国が突入していく生きる理由があやふやな消費社会を、一昔前の吉本の最初の初期ノートの文章と並べてみます。すると若き吉本が俺は飯を食うためにだけ仕事をして、それ以外のエネルギーは交換価値のない、つまり報酬も当てにできないし、評価も当てにできない自分の満足のために費やすんだと決意して言っていることが、いまや先進国では一般的な当たり前の状況に拡大しているといえると思います。この状況のキーポイントは一言でいうと無償ということです。かっては文学を志すような世の中のはぐれものを覚悟しないと、無償ということに賭けることはできなかった。ところがこれからの先進国の社会ではもっと大規模に無償ということの価値が問われると思います。そうしないと、このあやふやな生きる理由に耐えていけないからです。そこに先進国病ともいえる新しい精神障害の発生源もあるような気がしますし、その克服のヒントもあるように感じます。