風は今日、冷たい。雲のありさまも乱れてゐる。僕は少年の時、こんな日何をしてゐただらう。街の片隅で僕ははつきりと幼い孤独を思ひ起すことが出来る。執念のある世界のやうに少年たちの間では事件があつた。その中で身を処すときの苦痛は、今と少しも変つたものではなかつた。(〈春の嵐〉)

吉本は幼年期とか少年期の記憶を何度も掘り返し、そこから思想の糧を引き出してくる思想家です。ふりかえって私たちはどうでしょう。私は自分のあまりぱっとしたものではなかった幼少年期を繰り返し思い出すということは少ないです。それってなんかきついんですよね。しかしそこに現在の自分を映し出す光源があることは確かだと思います。逆にそれを知りたくないんですね。自分が裸にされるのが怖いから。自分というのものを実際よりましなものと思いたいからですね。しかし吉本は自分自身の核を発見するために、幼少年期の記憶を取り出して考察を繰り返してきました。過去を探ることが、その探る方法が現在と将来の自分を映し出す方法だということは、個人史としても歴史としても吉本の固執した思想の流儀といえると思います。
さて吉本の「うつ」理解を追うというテーマに移らせていただきます。吉本は自身の「うつ」理解を提出するまえに、考察の土台になった思想家の「うつ」理解を列挙しています。キルケゴールフロイト、クルト・シュナイダー、これらの思想家、学者の「うつ」理解は吉本の「うつ」理解のなかに批判的に活かされています。
前回はシュナイダーの「うつ」理解を解説しました。シュナイダーによれば、「うつ」はそれを引き起こす体験の意味内容とは関わりがない。ただ体験の衝撃力が問題になる。体験の衝撃力がいわば変動するこころの層をひっぺがして、変動しない基層の岩盤のような層を露出させる。基層の岩盤のような層が「基層抑うつ」と呼ばれるものです。その「基層抑うつ」とは何か。それは人間の「原始的な不安」だというのがシュナイダーの考察です。シュナイダーの考察の方法はフロイトの影響が強いと吉本は述べています。変動する層の基層にあるもの、という考え方はフロイトのこころの層の下に乳児期のナルチシズムの層があって、そこへの退行という現象が起こるという考え方に影響を受けているということです。
このシュナイダーの「うつ」理解に批判を加えたのが、ビンスワンガーという現存在分析学派という精神医学の学派を創始したスイスの学者です。ビンスワンガーはフッサールハイデッガーの影響を受けているそうです。つまり話はどんどん世界思想の難しいところにからんでくるわけで、正直にいって私にはよくわかりません。ハイデッガーだのフッサールだのをわかったように書くのはウソつきだとことになりますので、わかった範囲のことを解説するだけだと告白しておきます。たとえていえば大変な修行と努力をへた天才的な料理人の作った料理を、しょぼいコメンテーターが「おいしいです」とか「スープがあっさりしているのにうまみがあって」みたいなつまんないコメントをしているようなものでしょう。それでもとにかく私なりの理解をするために進んでいきますが、ご不満なかたは原文を読んでみてください。
ビンスワンガーはシュナイダーの「基層抑うつ」が人間の「原始的な不安」だという理解を批判をしているわけです。ではビンスワンガーにとって「うつ」の本質とはどういうものなのか。ビンスワンガーはフッサール現象学の影響を受けて、「うつ」とは「人間の時間的な構成の失敗の仕方」と位置づけたと吉本は述べています。時間的な構成とはどういうことか。それは吉本が「了解」という概念で述べてきたことと共通すると思います。時間的な「了解」です。つまり過去があって現在があって未来がある、という時間的な経過の了解だと思います。これが失敗すると、過去が現在へそして未来へという了解が失われます。過去は「もし、あのときああしていなかったら」というむなしい後悔にとらわれることになります。ビンスワンガーが述べていることのなかで重要なのは、この後悔が単に過去に浸っているというのとは違うというところです。「ああ、もしあのときあんなことをしなかったら」という後悔のなかにも、もししなかったらこうなっていたろうに、という未来への志向はあるということです。ということは過去から未来へという時間の構成は残っているわけです。ただその後悔のなかで語られる未来は空虚な可能性、つまり「もうどうしようもない出来事なのに、もしもああだったらこうなっていたのに、みたいなことを言っても意味ねえじゃん」という空虚な未来でしかないわけです。ビンスワンガーがいいたいのは、「うつ」はその繰り言を聞かせれている者には、今さらどうしようもない過去のぐちをいつまでも繰り返して、とうんざりするようなこの状態が、単に心構えをしゃんとすればなんとかなるというような甘いもんではなく、人間の思考のしかた自体が壊れているという、根の深い障害だということだと思います。「この点においてうつ病は、われわれが一般に考えているよりも、特にその治癒可能性から考えているよりも遥かに「重篤な」疾患であり、「深い」障害なのである(ビンスワンガー「うつ病と躁病」より)」
さてここから吉本自身の「うつ」理解が登場するわけですが、それはビンスワンガーの批判という形で提出されます。そしてそれはビンスワンガーだけでなくシュナイダーやフロイトへの批判でもあると思います。その批判は、「うつ」の本質理解において、身体と観念との関係をどのように考えているのかというところにあります。つまりもっとも根源的な心身の関係についての考察を戦場にしています。これがまた難しく、これは「うつ」理解よりももっと根底的な原理論の戦場です。それは「心的現象論」の序説で述べられている原理論をふまえなければならないものなんですよ。どこまで解説できるかわかりませんが、やれるところまでやってみます。
「うつ」は身体からくる病気なのか。それとも精神の内側からやってくる病気なのか。この問題を吉本はビンスワンガーの考察が、「うつ」病の根底にある「不安」をどう考えているのかという検討から始めています。吉本によれば、ビンスワンガーはフロイト「うつ」に対して考察した、自我の一部、いわば「良心」が独立し、他の自我の部分と葛藤をくりひろげるという理解にていして、そんな例はまれにしか見られないと批判しています。つまり「うつ」の本質が「倫理的」なものだということを否定しているわけです。倫理的なものでなければ、「うつ」は「自然」的なものだということになります。それは「うつ」は身体の問題だということです。ビンスワンガーによれば、「うつ」は倫理的な、あるいは神学的な、あるいは実存的な不安からくるものではなく、自然としての人間的過程が解体するときの自然の解体の仕方のひとつだとしています。その自然の人間的過程として時間的な構成のしかたがあります。人間が人間である自然的な土台として人間的な時間構成というものがあるということです。その時間の了解が人間を人間たらしめている「自然」だということです。それが失敗し障害を受けるときに「うつ」の不安はあらわれる。だから「うつ」は「自然」の障害の問題だということになります。
このビンスワンガー、そしてシュナイダーやフロイトにまでさかのぼる「精神」と「自然」についての原理的な批判から吉本の「うつ」理解が提出されます。というより、それは吉本の「心的現象論」のいちばん奥にあるフロイト等の先行する思想への根底的な批判が顔を出すということです。それはまた次回ということで。