われわれの精神はその方法を組織のためにではなく、組織の根底に対して使駆すべき理由をもつてゐたはずである。(断想Ⅷ)

組織の根底というのがなにかはわかりませんが、おそらく吉本は後年「共同幻想論」に結晶する幻想論の構想をもっていたのではないでしょうか。吉本は個にこだわって、個の根拠を掘りぬいてくれた人です。だから吉本を読んだ人の個である部分はずいぶん救済されました。しかし人間は社会の中でどうしたって集団、共同性、組織として生きる面があります。そしてそこで生きがいをもったり、熱狂したり、闘争したり、裏切られたり、捨てられたりする存在です。もちろん吉本もそういうことは人生経験としてよく知っています。そこで私たちがついつい共同性の渦のなかに踏み込んで、その力学や勢力図に夢中になると、そこには吉本はいません。しかしふと気づくと、その集団性の世界の渦のはしっこのところにブラックホールのような異様な思想的な磁場があります。それは吉本が個として、集団性としてうごめいている世界をじっと見て原理的な考察を述べている場所です。それが吉本だ。吉本が思想として存在していることは、この世界に個のあり場所があるということなんですよ。

おまけです。
江藤淳」  吉本隆明(「江藤淳著作集」昭和42年)
文学者としての江藤淳は日本のボクサーに喩えてみると世界タイトルに挑戦すれば15回までやって僅少差で判定負けするとおもう。さてそういうわたしはどうだろう?6回までに相手をたおせればよし、そうでなければおそらく大差で判定負けするだろう。しかし、研鑽につぐ研鑽をかさね、かならず世界タイトルを奪取すべきだという日本の思想文化の負っている十字架を江藤淳はよく知っているひとだとわたしはかんがえている。かれの孤独はおそらくそのことを知っているものの孤独である。