われわれは時代の不幸を時代にかへさなければならない。現代における人間精神の社会性は正しくこの使命を負つてゐる。且て個我の受けた傷手のうち、自我の負ふべきでなかつたものが如何に多くあつたか。(断想Ⅳ)

自分のこころというものを、ひとかたまりのものとしか思えないならば、つらいことが起こると自分を責めるしかないわけです。あるいは自分がただ耐えるしかない。ひとかたまりだと思えば、外側の世界とひとかたまりの自分しかないんだから、つらい状態は世界を呪うか自分を呪うしかないでしょう。世界の呪いかたなんてわからないから、それは運命だ、とか世間は厳しい、とか考えてあきらめるだけで、あとは自分を呪う。吉本がこころ(吉本の概念では幻想)を共同幻想と対幻想と自己幻想とにわけて、相互の関係について考えた時、こうしたひとかたまりにして考える迷妄を切り開く契機が生まれたわけです。しかしこの偉大な考察はちっとも浸透していかない。それであいかわらずひとかたまりにして、切実ではあるが安っぽい感傷や感動をあたえる表現がはびこっています。
「永遠のゼロ」っていう話題作を映画やTVドラマでみましたが、これはゼロ戦での特攻を描いています。特攻というお国のために死ねという国家のおしつける倫理に対して、主人公のゼロ戦乗りは抵抗するわけです。その抵抗の根拠は家族です。「妻や子のために生きて帰る」いう倫理です。しかし映画全編を通して、死を強いてくる国家に対する対象化がないんですよ。直裁な表現としてないというんじゃなくて、百田という原作者の内面にないことが分かるんです。敗戦後70年も経っているのに、まだこんな戦争死して家族が悲しむというだけの切実だけど安っぽい感動を強いる小説や映画が流行る。しかしいつかは吉本が生涯を賭けて考えたことが、じわじわと浸透していくでしょう。それが言葉として残っているかぎり。「この世界にはバカばかりがいるわけではない」という、かって吉本が本多秋五におくった言葉のように。
では「うつ」についての解説に移らせていただきます。「心的現象論本論」の「<うつ>という<関係>」の章から吉本の考察を追ってみます。前回はキルケゴールの「反復」という著作から、「うつ」についての見解を解説しました。キルケゴールが述べていることは、吉本によれば「了解」の時間性が現在から過去に向かいつつ現存在に到達するという矛盾をおかす、そのためにその人の「現存感」は自己の「非存在」(その極限は<死>である)に向かって現存している。それが「うつ」の本質だ、というものです。現在が過去から未来へ続いていくものだという「了解」が変容して、未来から切り離された過去が現在を洪水のように襲い浸してしまう。未来にむかって生かされることもなく、だからどうしようもない「後のまつり」でしかない過去がその人を包み込んでしまう。だからちっぽけな後悔だらけのみじめな自分、非存在の自分しか感じられないというようなことだと思います。
次に吉本が取り上げているのはフロイト「うつ」の考察です。吉本はフロイトの「不安の問題」という著作の一部を引用して、「うつ」についてのフロイトの重要な問題は、ほとんど触れられていると述べています。そこで吉本のフロイト「うつ」理解を追ってみます。
まず「うつ」と「悲哀」とはどう違うのか。「悲哀」というのは、誰でも大切なものを失ったときに感じるものです。その「悲哀」と病気としての「うつ」はどう区別がつけられるか。その解釈の試みはさまざまになされてきたが、もっとも注目に値するのは古典的なフロイトの解釈であると吉本は述べています。
吉本の引用するフロイトの「うつの重要な問題はほとんど触れられている」という引用部分はいくつかの考察に分けられます。これを読むとフロイトってやっぱりすげえなという驚きにうたれます。だんだんにこれを解説していきます。
まず「うつ」と単なる「悲哀」とはどう違うか。フロイトによれば、「うつ」には「自我感情の著しい低下」がみられるが、「悲哀」にはそれはない、ということです。「悲哀では外の世界が貧弱になり空虚になるのだが、メランコリー(註:うつのこと)では自我それ自体が貧弱かつ空虚になる(「フロイト「不安の問題」」)これはキルケゴール「うつ」は現存感を非存在に導くといっていることにつながると思います。そして自我を卑小感や罪責感が襲い、その自我の貧困化が不眠や拒食に進み、ついには自殺を願うようになる。それは「生命に執着させている衝動」を極端に抑圧、克服しようとしていることの表象だと吉本は述べています。
ここまでいいですか?悲哀、たとえば家族や恋人が失われて悲しみに沈みこむことは誰でも経験があるでしょう。この悲しみは「うつ」に似ています。しかしやがてはそこから抜け出ることができる。どこが「うつ」と違うのか。それは悲哀では自分の悲しみに固執するあまり自我感情は肥大して外界がほとんど意に介されなくなる。それに対して「うつ」では自我感情はかえって貧困になるということです。自分が悲しみでいっぱいになるのではなく、悲しみで自分がちっぽけでくだらない虫のようになる、という違いです。親が死んだら悲しい。しかし自分がくだらないちっぽけな死んだ方がいいような虫けらとは感じないでしょう。しかし「うつ」はそう感じさせるということです。
ではフロイトの考える「うつ」の本質とは何か。それは「自我の一部が分離して自我の他の部分を対象的に批判的に評価し、あたかも独立した<力域>を形成するようになり、この<力域>は、ほかの心的現象に対しても、独立した良心のように振る舞う。そして、自我の他の部分を嫌悪し、他人の非難にさらけ出せるようにする。身体の欠陥、不器量、虚弱、社会的な劣等性が自我評価の対象になることはなく、ただ「道徳的な嫌悪」、「自我の貧困」だけが、重要な位置を占める「<うつ>という<関係>(2)」ということになります。こういうところがフロイトってすげえなと感じるところです。フロイトをよく知ってる人からは、ああそれね、とか古典的だねとか言われるのかもしれませんが、やはり現実にうつの人とつきあい、こうした考察に触れると目からうろこが落ちるような気がします。
自我の一部に「良心」と呼ばれているような倫理的な部分がある。それは誰でもあるでしょうが、それがいわば病むということです。自分が不細工だとか学歴がないとか体が貧弱だということが「うつ」の苦しみになるのではなく、「道徳的な嫌悪」を自分に感じる。自分のなかの「良心」が自分の他の自我を許さないということです。そうフロイトは言っています。
ここからさらにフロイトが考察していることがあります。それは「根源的なナルチシズム」という概念です。ここから「母型論」に通じていく理路というものがあるでしょう。人間には「根源的なナルチシズム」と呼ばれる「自己愛」がある。ということはそれが形成された時期が自己史のなかに必ずあるということです。それがフロイトの乳幼児期からの性的な発達の理論です。それを胎児期にまで拡張したのが「母型論」ですが、その解説はまだ早い。まず愛する対象、つまり「対象愛」という概念があります。ナルチシズムつまり「自己愛」は「対象愛」に発展していきます。その「対象愛」が困難にであったり喪われたりしたとき、「うつ」の人は「自己愛」に退行します。そして自我は対象愛への定着と自己愛への退行のあいだを、つよく振幅すると吉本は述べています。
ここから「過食」と「拒食」という「うつ」にともなう症状へのフロイトの理解があらわれます。「対象愛」への合体は「食べる≒過食」という方法につながる。ここにはフロイトの性的発達の理論があります。「口唇期または食人期」という発達段階をフロイトは考えているわけです。「食人期」というとびっくりするかもしれませんが、フロイトの性的な発達理論、あるいは小児性欲理論によると、性的な発達は「口唇期」「肛門期」「性器期」というように発達するということになります。これを詳しく解説することはここではできませんが、「口唇期」は誕生から1年半くらいまでの時期を指します。母親の乳房を吸うことが唇や口のなかに性的な最初の快感を乳児に与えるという時期のことです。ここには同時に乳児が母親の乳房を噛むことで性的な快感を感じるということがあり、それをフロイトは「口唇サディズム期」と名づけています。それが人類の太古にみられた「愛する人を食べる」という食人の習俗に結びつくとフロイトは考えているわけです。だから「食人期」と呼ばれます。ここには「食」と「性」との同一性という問題があり、まさに「母型論」のテーマにつながりますが話を戻して、こんどは「拒食」は何か、というと、それは「対象愛」との合体ではなく、「対象愛」から「自己愛」への退行のあらわれだということになります。
では根源的なナルシチズムに退行した人にはなにが待ち受けているのか。それは対象に対して愛情を向けるという「対象充当」と呼ばれるものが、「自己愛」に退行したために逆戻りするということになります。愛する対象に対して向けられていた性のエネルギー(リビドー)が自分自身に逆戻りすると何が起こるか。それは対象に向けられていた愛だけでなく、敵意や憎しみも自分の自我に向けられるということです。そして自己は自己を殺しうるようになる。それが「うつ」の「自殺念慮」つまり自殺を願うことのフロイトの分析です。
さらにフロイト「うつ」について考察している重要なことがあります。「うつ(メランコリー)」が「燥(マニー)」に躁鬱病というように転換することがあります。なぜ「うつ」は「そう」に転換するのか。フロイトによれば、「うつ」状態の極限において自我と批判的になった対象的自我(良心)との葛藤は、<病む傷口>のように、高度な対象充当を要求するようになり、「燥状態」へと向かうことになる、と吉本は述べています。これをもっとわかりやすい言葉に置き換えてみたいと思います。「うつ」は普通の人が時としておちいる悲しみとはちがう。「うつ」の人は、こころのなかに「良心」と呼ばれるような当人にも手のつけられない道徳的な裁判官のようなものがあって、それが「うつ」の人に自分で自分を裁かせ、苦しませる。自分が自分を許せないという「道徳的」な悩みが「うつ」の悩みだ。それに耐えられなくなると「そう(燥)」に転換する。だから「そう」では「うつ」の悩みがばかばかしいと思えるくらいの高度の対象充当、それが妄想であれなんであれ、極端なナルチシズムに転換することで「うつ」から抜け出ようとする。もちろんそれは長くは続かないので、また「うつ」の地獄に戻ってしまう。
まだここでは吉本自身の「うつ」の理論はあらわれていません。吉本にとっての本筋は自分の理論を提出することです。しかしそれができるために批判的であれ否定的であれ、重要であった他者の仕事を述べているわけです。やがて吉本自身の「うつ」の理論を解説できるわけですが、しばらく吉本に影響を与えた他者の理論を追うことになります。今回はこんなところで。