芸術は場に開く花である。場のないところに芸術を開かうとしてゐる無数の青年たち。ぼくが君たちに与へうる唯一の助言は、君たちが自らのうちに場をつくりあげるまで、超人的な努力を傾注せよといふことである。さしたる才能なくして場の上に咲く花を余り問題にするな。(断想Ⅶ)

「場」というのはつまり文化的な土壌だと思います。そしてそれを支える経済社会的な土台です。ヨーロッパには日本とは比較にならない歴史的な学問や芸術文化の土壌があります。またそれを支えてきた経済社会の歴史的土台があります。たとえばニーチェがいてマルクスがいてヘーゲルがいてプラトンがいてというように連綿と続くキラ星のような思想家の山脈というものを日本と比べたら悲しくなるようなもんです。その文化的な土壌を日本に総合的に作るには何百年もかかるでしょう。しかし論理だけはその「場」を個人の超人的な努力で作ることもできると吉本は考えていたと思います。
吉本自身が自分をボクサーにたとえて論理の世界性の場に出たら、最初の3回くらいでノックアウトできればよし、もしできなければ大差で判定負けするだろう、というようなことをどこかで述べていました。そして文化の土壌は社会を支配してきた者たちの文化として蓄積されています。その世界に反逆し、その文化のあり方に異をとなえるものは、「場」のないところで「場」を作ることから始めなくてはならないということです。すでにある「場」の凄さと、新しく「場」を作ることの苦しみということは吉本のさまざまな考察のなかに見いだされるものですが、初期ノートのころからそれはあったということになります。

おまけです
清岡卓行」  吉本隆明吉本隆明全著作集7 作家論Ⅰ 昭和43年勁草書房
「かれ(註:清岡卓行)は、わたしとおなじように日常世界に生きているのだが、かれのこころは、また思想は、いつも日常世界の下をあるいている。そこから問いかけ、やさしいゆきとどいた神経を発揮する。かれの声は日常生活人の声のようにみえながら、日常生活の下方にある世界から発せられているから、音もなく痛みもなく滲みとおるのである」