またも一日の終りに熱くほてつた頭脳と痛む神経とが残つてゐる。僕は明日も生きることを強ひられてゐる。強ひられてゐるといふことの外に何の言葉も用ひることは出来ない。(〈夕ぐれと夜の言葉〉)

ここには吉本の思想の重要な要素である「受動性」というものと、その核となる体験が述べられていると思います。戦争中に吉本の内面を充たしていた戦争肯定に至る世界認識と、徹底抗戦とか戦争死の覚悟といった内面の覚悟性が敗戦の現実によってこなごなに砕けたわけです。それでも自殺しないかぎり吉本の肉体は生きている。つまり「強いられて」生きているとしかいいようのない体験を吉本はしています。こうした体験は大なり小なり誰でもしているものでしょう。全身全霊を賭けてやりとげようとしたことが挫折した時にそうなります。失恋とか結婚生活の破たんとか、試合に負けたとか破産したとか子供を失ったとか、そういう人生の難破の体験です。吉本が吉本たるゆえんはその体験の内容を思想として深めたところにあります。
吉本が受動性という思想を深めるにあたって、もっとも影響を受けたのは親鸞の思想だと思います。「絶対他力」という親鸞の宗教思想は受動性という概念を根源的に掘り下げたものだからです。吉本はどこかで一度やめた人というのは面白い、やめたことがない人というのはあまり面白くないんですよね、というようなことを言っていました。たとえば高村光太郎はパリに留学していた時代に、なにをしていたかいまだにわからない一時期をもっているそうです。そういうやめてしまった時期があるということですね。自分で作り上げた内面がいちど難破した経験があり、そこからなにかをつかみとったというその過程が面白いということだと思います。
さて「母型論」の解説が終わったので、これから何を解説したらいいかと考えましたが、吉本の思想の山脈からすれば私が解説したのはほんの山並みを見上げたくらいのもんで、ほんとに分け入って取り上げてみたい内容はいっぱいあるわけです。しかし「母型論」という書物に独特の意味があるのは、それが吉本が言語とか心とか国家や歴史とかあるいは現在から未来にかけての情況分析というかたちで個々に追求してきたテーマを連環させることができる方法の可能性を見出したということにあると思います。その連環できるという方法は三木成夫の解剖学との出会いによって作られたといえます。
これは逆にいえば、吉本の思想の山脈のさまざまな仕事に「母型論」からの光を当てると、また別の仕事にも連環が見つけられるということにもなります。だから要するに「母型論」という仕事の意味を生かしながらいろいろな解説を続けていこうというそれだけの話です。
そこでですね。私としては興味のあることがあって、それはうつ病についての吉本の考察をしっかり把握してみたいということなんです。どうしてかというとそういう人が周囲に多いからですね。それに自分自身も基本的にうつなんじゃないかと疑っているからです。吉本が精神障害の問題でもっとも考察の比重が多いのはうつ病、あるいは躁うつ病ではなく精神分裂病統合失調症)です。それは何故かというと、うつ病が現実との関連で起こる精神障害であるのに対して、分裂病は純粋に内面からやってくるものであって、精神病のなかの精神病といえるものだと吉本がみなしているからです。しかし周囲の人たちに広汎にみられるのはうつ病のほうじゃないかと思います。あるいは軽度うつ症というか、「うつっぽい」といわれる状態、しかし健常な状態の者にも時として訪れる憂鬱さとか悲哀という状態とはやはり一線を画しているようなものに興味があるわけです。これはいったいなんだ。なんでまたこんなにいたるところで出会うんだということです。また老人というのはどうしてもうつっぽくなる存在ですから、私の仕事である介護の世界の理解を深めたいという欲求でもあります。
それでまず「心的現象論本論」からうつ病躁うつ病)についての記述を読んでみます。
「心的現象論本論」の「関係論」のなかに「<うつ>という<関係>」と「<うつ>関係の拡張」という章があります。ここからまずは吉本のうつ病の理解に近づいてみたいと思います。
ていねいな解説をするとたいへんな字数を必要としますので、かなり要約といいますか、ポイントをひろうような解説をしてしまいたいと思います。「心的現象論」は吉本が個人誌である「試行」に連載したものです。「試行」に書くということは依頼された原稿ではないということです。だから原稿料も商業誌での発表の予定もない反面、紙数や期限のしばりもありません。だからていねいに長い引用もしながら論理を展開しています。興味のある人は、こんな解説はほんのきっかけにしてさっさと吉本の著作自体を読まれることをお勧めします。
吉本のうつ病躁うつ病)に対してもっている問題意識のひとつは、うつ病と健常者がおちいる悲哀や憂鬱とはどう違うのかということです。そしてうつ病の本質は何かということです。吉本は日本や外国の学者の観察したうつ病者の例をたくさん引用して、そこからうつ病の本質を考えようとしています。そしてその本質の理解に優れた理解をしめしているのはキルケゴールの「反復」という書物だとして、キルケゴールを引用しながら考察します。吉本がその結果到達しているうつ病の本質は、それが「了解性」の異常だということだと思います。「了解性」というのは、そもそも人間の心的現象を「関係性」と「了解性」とに分けて考察する吉本の思想があります。「関係性」とは対象の受け入れです。「了解性」とは受け入れた対象をどう理解するかというようなことです。うつ病者は現実と「関係」する。その現実との関係をどう「了解」するのか。吉本がキルケゴールを引用しながら考察しているのは、自分が現在あるという「存在性」は本来過去から現在に向かって流れる時間のなかで把握されるものですが、うつ病者は自己の「存在性」を<過去>に結びつける。「いま、ここに、こうしている自己の<存在性>を、過去に向かっている存在であるかのようにかんがえる(「<うつ>という<関係>1」。
ここのところ分かりますか?もうちょっとくだけた言い方で吉本の言っていることを言い換えてみたいと思います。うつっぽい人は過去のことばっかり言います。そんなこと今更言ってもしかたないじゃないかと言いたくなるほどに。もう過ぎてしまったことにいつまでこだわっているんだというように。そういう体験はあるでしょう?それですよ。自分が今ここにあるということが現在と結びつかずに「過去」と結びついています。それは「了解」という心的な機能が「過去→現在のように志向されず、現在→過去のように志向されながら現在に到達するという矛盾を実現するとき、それは「自殺意図」のような否定性に、もっと極端にいえば、<非存在性>に連結される(「<うつ>という<関係>1」。うつ病者は自殺をすることがある。なぜうつ病が自殺につながるのか、ということも吉本の問題意識のひとつです。了解性が現在から過去に向かっていく、というのは別のところで吉本が書いているように「過去が、現存感に、逆向きの時間性で、いいかえれば、了解性なしに流れ込むとき、はじめて重たく、そして<うつ>の状態が、不可解な形で到達するといってよい」というように「了解性が失われた」と考えたほうが考えやすいともいえます。了解性が失われた「過去」が現在の自分を包み込むとき、それは包み込まれた「現在の自分」の存在感を非存在に導くと吉本は言っているわけです。非存在というのはくだいていえば、ちっぽけな無意味な生きる価値のない自分という感じでしょう。
過去を「追憶」するというのは、誰にでもあることです。たとえ辛い「過去」、耐えがたい「過去」の失敗、があったとしてもそれが自殺(自殺念慮、自殺を考えることをいいます)につながるわけではない。なぜならそこには「過去→現在」という了解性が存在しているからです。またその健常な了解性があるから過去は現在の自分がひとつひとつ想起しているもの、という現在との関係、コントロールがあるからです。しかし「うつ」にあっては、「過去」は現在に健常な了解性として結びつくものではない。それは「茫漠として空虚な、漠然たる<過去感>(前掲書)」です。「ただ、かれの存在感を、非存在にみちびくためにある逆行した時間性に伴われた過去(前掲書)」です。
中途半端ですが、今回はここまでで。了解性が逆向きになった、あるいは正常な了解性を失った「過去」が心を埋め尽くす。しかし自分は現在にいるわけだから、現在にいる自分は果てしなく無意味なちっぽけなものに感じられる。そんな感じです。まずは入口を入ったということで、また次回に。