そして秘やかな夜が来た。勿論、三月の外気は少し荒いけれど、それはあたかも精神の外の出来事のやうだ。夜は精神の内側を滑つてくる。甍(いらか)のつづき。白いモルタルの色。あゝ病ひははやく癒えないだらうか。僕は言ひきかせる。〈精神を仕事に従はせること〉。(夕ぐれと夜との独白)

精神が外界と遊離して、現実と離れてただよっていく感覚が描かれています。敗戦の与えた衝撃が若い吉本にそれを強いているのだと思います。これは病ひだという認知が吉本のなかに生きています。つまり病ひに抵抗できています。そこで精神を現実につなぎとめるために「精神を仕事に従わせること」ということを考えるわけです。仕事だけが、現実からかい離して自己運動をはじめる精神を現実につなぎとめる。この場合の仕事というのは、精神を現実からかい離させた衝撃を治癒するだけの意味がこめられていなくてはなりません。吉本にとってそれは「書くこと」だったわけですが、ここでいう「仕事」はそれで食っていけるかどうかという生業(なりわい)とは限りません。金にならなくても、生業は別にせざるをえなくても、全霊をかけて取り組みうるものを仕事と呼んでいると思います。そして吉本は生涯そのような「仕事」を貫いていきました。
では「母型論」の解説の最後である「原了解論」をかたづけたいと思います。「原了解論」は「心的現象論本論」の一部であったものを「母型論」に収録したものです。「心的現象論本論」は大部の書物ですが、章立てはおおきく「眼の知覚論」「身体論」「関係論」「了解論」に分かれています。「了解論」のなかに「原了解以前」という章と「民族語の原了解」という章があって、これをもって「心的現象論本論」は終わるわけです。「母型論」の最後の「原了解論」は、この「民族語の原了解」という章を収録したものです。「原了解」というのは精神の初源としての乳児期のことを指すと思います。そして「原了解以前」というのはさらに初源の初源としての胎児期を指すものです。だから「民族語の原了解」というのは民族語のいわば乳児期であるアフリカ的段階の言語のはじまりを考察するものです。
「原了解論」で吉本が取り上げているのは琉球の「おもろそうし」や本土の「万葉集」や「古事記」「日本書紀」などをテキストにした「接頭辞・接尾辞」と「枕詞」の問題です。吉本には「初期歌謡論」というこれも分厚い論考があり、これらの問題はそこで詳細に追及された内容をもとにしています。
「おもろそうし」のなかの接頭辞(接頭語ともいう)とは、たとえば
「京の君南風や(すばらしい君南風<人名>よ)」
「雲子口<ごちへ>(美しい神言)」
「海む 親物<もん>(海のすばらしい獲物)」
「見物<みもん>艫櫂<ともかい>や(見栄えのする艫櫂<船名>よ)」
こうしたものですが、「おもろそうし」は祭祀における祝詞を起源とした歌謡だということなので、これらは素晴らしい人や自然物や人工物への賛辞ということになります。これらの歌謡のなかの「京」「雲子」「親」「見物」などが「おもろそうし」の接頭辞の一例です。こうした接頭辞をこんどは本土の和語の世界で書かれた「万葉集」の接頭辞と比較してみます。
い留めてむかも
「たわらはの」
「さにつらふ」
「まかなしみ」
「さ寝らくは」
こうした「万葉集」の接頭辞を「おもろそうし」と比べてみます。「おもろそうし」の接頭辞の「京の君南風<きみはゑ>や」の「京の」は、「君南風」という人物にかかる「素晴らしい」という形容となっています。「京の」は京都ではなく、琉球首里の都とか首里城内をさす言葉です。首里の都のように立派なとか華やかなという形容になります。ですからこの接頭辞は「喩」の機能をもっています。同様に「雲子口」は天空のちぎれ雲、浮雲のように美しい、天上のものである「口(神言)」という意味になります。これらは首里の都やちぎれ雲そのものに似ているという直喩ではなく、のようにという暗喩であると考えられます。したがって暗喩はそれ自体が喩として抽象的なものといえます。しかし「万葉集」の「い」「た」「さ」「ま」「さ」といった接頭辞に比べれば、具象的な「もの」あるいは「こと」をあらわす言葉が接頭辞になっていたことがわかります。
「おもろそうし」は旧日本語の名残をのこしていて、「万葉集」は新日本語(和語)で書かれていますから、「おもろそうし」のほうがより古い日本語(旧日本語・アフリカ的段階の言語)に接しているとみなされます。しかし「万葉集」にも「おもろそうし」にさかのぼることができるような古い語法の名残がみつけられますし、「おもろそうし」にも「万葉集」などの接頭辞に展開していくような変化がみつけられます。吉本はそれを記述しています。
たとえば
「めす川の 真清水<そうず>」(めす川にある素晴らしい井戸の水)
「平良<たいら>勝り人<きよ>が」(平良<地名>の尊い人)
「聞へせぢ新君」(名高く素晴らしい神女)
「意地気<いぢへき> 神やれば」(立派な神だから)
こうした「おもろそうし」の接頭辞の「真」「勝り」「新」「意地気」などは、先に引用した接頭辞より抽象性が高いものと吉本はみなしています。語の本来の意味が残っている形容詞的な使い方から、さらに抽象度を増していくと本来の語の意味から離れて接頭辞そのものとして機能するようになります。それをさらに抽象性を増していったのが、「万葉集」に見られるもはや本来の意味を失った「い」「た」「さ」のような接頭辞だと吉本は考えているわけです。
逆に「万葉集」の接頭辞のなかにも抽象度がまだそれほど高くなく本来の語の意味がたどれるものも存在します。たとえば万葉集の「み空行く」という語句の「み」とう接頭辞は空は尊いものだとか美しく天上的なものといった意味をわずかにのこしていると吉本はみなしています。こうして考えていくと「おもうそうし」の接頭辞は「万葉集」の接頭辞に接続していくわけです。
では接尾辞のほうはどうなのか、という問題が残るわけですが、そこに行く前に接頭辞(接頭語)と類似した概念をもつ「枕詞」と接頭辞の関係を吉本は考察しています。先に述べたように「枕詞」については「初期歌謡論」という吉本の大部の論文があります。それを踏まえて述べられているわけです。具体例を出す前に吉本の論理を追ってみます。
吉本はおそらく独自の発見であったと思いますが、「おもろそうし」における接頭辞と「古事記日本書紀記紀)歌謡」や「万葉集」における「枕詞」とは、同じ質の修飾語であり、「おもろそうし」ではそれが接頭辞の意識で用いられ、「記紀歌謡」や「万葉集」では枕詞の意識で用いられたと述べています。
つまり「おもろそうし」では接頭辞は修飾語と同じであった。そして接頭辞が抽象度を増すごとに修飾(形容詞)的な側面は縮退して、万葉集の一字で意味のわからなくなった接頭辞に変化していった。しかし修飾語としての語法がなくなってしまったわけではない。「おもろそうし」で接頭辞と修飾語が一致していたものが、分化して、接頭辞はより抽象度を増していき、一方で修飾語としての語法は「枕詞」として用いられるようになったと吉本は考えています。だから枕詞は「おもろそうし」よりもより修飾語として本来の語の意味が残っていると考えます。
万葉集」などの接頭辞は本来の意味を失っているために、接頭辞をただの添え物のように考えがちです。調子を整えたり語勢にしたりするための助詞のてにおはに類するものと考えやすい。しかしそうではなく、こうした意味を失った接頭辞も、もとをただせば修飾語の抽象化や固定化のはての縮退と考えられると吉本は述べています。ここで旧日本語と新日本語の混融のルートが見いだされていくわけです。
わかりやすくするために具体例をあげます。「古事記歌謡」から。
八雲立つ 出雲八重垣」
「やつめさす 出雲建が 佩ける(はける)刀(たち)」
「水溜る(たまる) 依網(よさみ)の池の」
「隠国(こもりく)の 泊瀬(はくせ)の山の」
「纏向(まきむく)の 日代(ひしろ)の宮は」
八雲立つ」や「やぐめさす」は「出雲」にかかる枕詞です。これは「神聖な」という意味の修飾語です。「八雲立つ」と「やぐめさす」の原義は「おもろそうし」の「君ぎや やぐめさす」というような尊称の語句とみなされます。つまりつながっています。そして「おもろそうし」の接頭辞の修飾語の側面が枕詞になっていったことを示しています。
また「おもろ」の「やぐめさす」は語本来の意味を残す修飾語であると同時に、尊称一般としての接頭辞の特性を残しています。それが枕詞になると修飾語の側面が固定され、接頭辞はより抽象度を増した一字の接頭辞になったということです。
「水溜る」は灌漑用に朝廷が作らせた依網の池の水を湛えたさまを修飾していて、そのまま枕詞として固定化したものです。「隠国の」も、山にかこまれて引きこもったところ(あるいは霊地)という意味の泊瀬の土地柄を修飾しています。「纏向の」も纏向山のふもとにあった景行帝の日代の宮殿をそのまま修飾する言葉になっています。
今日のところは以上です。まだ接尾語の部分の解説が残っていて終わらせることができませんでしたが、それはまた次回で。