僕らが現実にあるといふことは僕らの生理の限定のうちにあるといふことに外ならない。この生理は内部から深刻に歴史的社会的な現実を投影するものだだ。(原理の照明)

歴史的社会的な現実が投影されるものを生理にまで掘り下げて考えている文章です。この場合の生理というのは人間の身体ということになりましょう。身体は三木成夫の研究によれば、外壁の感覚系と内臓系にわかれるわけです。身体の外壁である諸感覚は時代的な変化によって、目まぐるしく変化しますが、内臓系はそれほど変化しないわけです。太古のころからあまり変わらないともいえますし、ゆっくりと変化しているともいえます。こうした身体生理と歴史社会というものを結びつける方法にようやくたどり着き、端緒をつけたのが「母型論」だといえると思います。

おまけです。
「書物の解体学」((1981 中央公論社)の「ヘンリー・ミラー」の章より  吉本隆明

ミラーは地獄の果てに、ほとんど完全に、なにかできそうなじぶん、という考えを粉々に砕いて、塵のように吹きとばしている。あとには、なにもできないじぶん、なにかしようとする〈意志〉をなくしたじぶんしかのこらない。ただ、わたしたちの〈風土〉だったら、一足とびに〈出家〉するところで、ミラーはわいざつさの行動についた、といえようか。