人間は最早や社会的体制としての宗教を必要とはしない。即ち組織としての宗教を必要としないのである。それ故各人は各々の宗教を持つだけであり、人間の数と同数の宗教が内在するだけである。(芸術家について)

宗教というものは個人の自己幻想に浸透してくると同時に、共同性の規範としての共同幻想でもあるという二重性をもっているものだと吉本はいっています。この二重性のゆえに宗教は人間にとって逃れがたい拘束力をもっているのだと思います。では対幻想は宗教にとってなんなのかというと、宗教と対幻想は相いれない幻想性だと思います。キリストが「私より父や母を愛する者はわたしにふさわしくない」とか「わたしより息子や娘を愛する者もわたしにふさわしくない」といっているのは、対幻想が宗教と相いれない幻想性だということを意味しています。それはまた宗教がにんげんのすべての幻想性を覆い尽くすことができないものだということでもあります。
この初期ノートでは吉本はもはや組織宗教は必要ないと言っています。しかし宗教がいまだに組織性をもち世界中に広く存在しているのはなぜでしょうか。宗教は法となり国家となるとヘーゲルマルクスは述べています。宗教が原始未開の時代からもっている共同規範性というものは法や国家に転化することで、社会全体を覆い尽くすような規範力を失い、その宗教の信仰をもつ者たち内部の規範にすぎなくなっていきます。しかしそれでもいまだに宗教が滅びないのは、現代の法や国家、また現代の科学や思想が触れることができないものに宗教が触れているからだと思います。それは宗教が古代思想としての巨大さをもっているいうことだと思います。
吉本にとって宗教は生涯のテーマでした。吉本は信仰、つまり「信」というもののなかに入っていけない俗世側のにんげんとして、「信」と「不信」を行き来できるような宗教思想というべきものを追及してきました。
「母型論」はそうした「信」と「不信」の境を行き来し無化できるような普遍思想を目指した試みです。宗教が「前世」とか「来世」と呼んできたものについて、胎児期やそれ以前の無意識を追及することで、科学と宗教の通路をつけようとする試みでもあります。また現在の倫理、善悪の課題を未開原始の段階を掘り起こすことで超えていこうとする試みでもあります。
さて「母型論」の解説に移らせていただきますが、7月26日に長崎の佐世保市で16歳の少女が同級生の少女の首を切り落し、内臓を裂くという事件が起こりました。皆さんよくご存じの事件だと思います。この衝撃的な事件を今まで解説してきた「母型論」の考察によって、どのように考えることができるか試みてみたいと思います。もはや亡くなった吉本にこの事件への見解を聞くことはできませんが、かっての酒鬼薔薇事件や佐川一政のパリでの人肉食事件、宮崎勤の連続女児誘拐殺害事件、それからオウム真理教の事件などに思想家としての生命をかけて発言してきた吉本の考察を追うことで、この事件を吉本ならどう考えたかを推察してみます。
吉本は「超『20世紀論』」(アスキー 2000年)のなかで酒鬼薔薇事件について述べています。酒鬼薔薇事件の犯人は14歳の中学生でした。佐世保の事件と酒鬼薔薇の事件は年齢が低いところが似ています。また被害者の首を切り落としたり、遺体を切り刻んでいるところ、殺人事件以前に動物に対する解剖などを行っていたことも似ています。また残忍な殺害を行っていながら、意外なほど平静であり知的な能力を失っていないようにみえるサイコパスといわれるような特徴をともにもっているようにみえます。
吉本が酒鬼薔薇事件の犯人の少年について述べていることの核心は、この少年は意識的行為と無意識的行為とが乖離してしまったのだといっていることだと思います。なぜ乖離してしまったかというと、「フロイト流にいえば、意識と無意識の中間に『前意識』というものがあり、『前意識』が意識と無意識をつないでいるわけですが、その『前意識』がどこかにスッ飛んで、なくなっちゃった。そのために意識と無意識が遊離したのではないかと思われます(超『20世紀論』)」ということになります。「前意識」がなくなったのが問題だと吉本はいうわけです。『前意識』がなくなると、意識と無意識が遊離してしまう。無関係になってしまう。それで「意識的な部分では正常な行為ができても、無意識の部分では異常な行為をやってしまう」と述べています。
ではなぜ「前意識」がなくなる、あるいは希薄になるのでしょうか。吉本はその理由を「父親の不在」あるいは父親の存在感の希薄さに求めています。吉本によれば胎児や1歳未満の子供にとって母親は全世界である。その期間は父親は母親を介して間接的にしか子供にかかわることができない。しかし父親が母親と仲が悪かったり、憎み合っていたとしたら、それは母親を介して子供に深刻な影響を与えると述べています。ただいずれにしても父親が直接に子供に影響を与えるのは、1歳未満までの「母親が全世界」という母子が混然一体となり「内コミュニケーション」でつながりあっている時期の後ということになります。この「母親が全世界」の時期までに、子供の無意識が形成されます。そして子供の無意識的形成が行われたあと、「他者」として登場してくる父親は、子供の意識的行為と無意識的行為とをつなぐという面において主要な役割を果たすと吉本は述べています。したがって父親が「前意識」の形成に主要な役割を果たし、酒鬼薔薇事件の犯人の少年の場合には、父親の存在感や影響力が希薄だったために、そのつなぎがうまくいかずに切れてしまったのではないかと吉本は考えます。
犯人である少年が幼児の首を切り離すというような残虐なことを行っていながら、まるで自分がやったのではないかのような奇妙に遊離した精神状態で犯行声明文を書いたり、供述調書をとられたりしているのは、残虐なことをせずにはいられず、また実行してしまったにもかかわらず、その無意識が犯行声明を書いたり供述調書をとられたりという意識的な行為のなかでは無縁に感じられる、自分のことのようには感じられないということです。意識的行為と無意識的行為が遊離しているから、無意識でやったことを意識はいくらでも冷静に記述できる、ということになります。
この意識と無意識の遊離、それは前意識の喪失によるわけですが、その原因になるのが父親であるということですが、無意識自体の形成は吉本の考えでは母親との関係で作られます。だから犯人の少年や佐世保の事件の犯人の少女が、幼児や同級生の首を切り落としたいとか動物の体を切り刻みたいという無意識を形成したのは母親との関係だということになります。つまりこの犯人の少年や少女は母親と父親の両方の関係に失敗しているということになります。残虐なことを行い、しかもその行いと自分の意識が遊離して感じられるというのは両親との関係がひどいもんだったということになります。
ところでこの世間を驚かし戦慄させた14とか16歳の幼い少年少女の行った残虐な犯罪をどう考えるかということですが、吉本は他の論者とまったく異なる考察を示しています。吉本の考察は、この犯人の少年、少女がいる「少年少女期」という個人の生育史の時期の問題として考えます。そして、「母型論」の解説でも書いてきたことですが、この生育史の時期を原始未開、つまり吉本が「アフリカ的段階」と名づけた歴史段階の特性に置き換えて考えます。また「アフリカ的段階」は「指向変容」させることで地域的な問題にも置き換えて考えることができるとみなします。そして重要なことは、この起源としての「アフリカ的段階」の問題を現在の、吉本が「超資本主義」と呼ぶ資本主義社会の未知の段階と関連させます。するとこの少年、あるいは少女の犯罪は、特殊で個人的な犯罪の問題ではないということになります。またこの少年少女の特定の家庭内の家族問題とみなして片付けるわけにもいかなくなります。ではどう考えるとというと、この少年少女が露出した残虐性は、それ自体ではなんら特殊なものではなく、誰の心にも乳幼児期から少年少女期までの心性として通過してきたものであり、また成人となっても無意識に潜在しているものだということです。そしてその残虐性は同時に人類の「アフリカ的段階」においては普遍的にみられるもので、それは「残虐性」と呼ぶのは現代から見てそう思えるのであって、「アフリカ的段階」やその名残のある地域では普通のできごとに過ぎなかったということです。そしてこの乳幼児期から少年少女期の心性であり、同時に「アフリカ的段階」の特徴である(残虐性)が犯罪として露出したのは、この社会が「超資本主義」の段階に突入したことと大きく関係するという理解になります。ということは日米欧が突入している未知の消費資本主義あるいは超資本主義の社会においては、このような(残虐性)が露出した事件は、誰にでもどこの家庭、どこの集団内部でも起こりうるということです。このことを吉本は『今回の事件は、〝子供たちが集団で殺戮したということと同じなんだよ〟っていうことです。この事件を、少年個人の単なる精神異常として片づけてはならない、と僕は思います。オウム真理教事件についても、そうです。あれは、オウム真理教という異常な宗教団体がやった異常な集団犯罪である、と単に片づけてはいけない。「集団犯罪も、一人でやった単独犯罪も、いつでも交換可能である、そういう時代状況なんだよ」というふうに見なければいけないと僕は思います。両方は通底していると思います(超「20世紀論」より)』と述べています。
生き物を切り刻んでみたいとか、解剖してみたいという欲求を(残虐性)というならば、それは「乳幼児期から少年少女期」に普遍的にみられるものだと吉本は述べます。フロイト流にいえば、少年(少女)にはあらゆる獣的な残虐性もあるし、性的倒錯もある。悪いことや異常性、そういう要素をすべて持ち合わせているのが少年(少女)だと吉本はいいます。捕まえたトンボの尻尾を切って、代わりにマッチ棒を差し込んで飛ばそうとしたというような(残虐性)はにんげんの生育のある時期に普遍的にあるということです。また人類は原始未開の時代に首狩りをしていた。日本の中世でも、武士たちは戦で敵将の首を取ることを手柄としていた。今からみれば異常とか残虐といわれることも、人類のある歴史段階やその歴史段階をひきづった地域では普通のこととして行われてきたという視点が重要です。
残虐とか異常ということは、個人の生育のある時期や、人類の未開の歴史段階に遡れば普遍的に行われることであった。ではそれがなぜこの現代の社会にあらわれてしまうのか。吉本は「獣的な残虐性が現れる閾値が、社会状況として低くなった」という言い方をしています。それは「超資本主義社会」に突入したということです。では超資本主義社会なるものはなぜ閾値を低くするのか。それはやはり「価値」の問題であると思います。資本主義が未知の段階に入るまでは貨幣が価値の基準として、労働価値が価格を決定していた。しかし現在では価値と価格が遊離して因果関係が結びにくくなっていると吉本は述べています。すると「価値」というものが昔のように明瞭ではない社会が登場します。「価値」が明瞭ではないということは、生きることの「動機」も明瞭ではないということです。昔のように、いい学校に入って、いい会社に勤めるというような「価値」に基づく「動機」が不明瞭になったということです。そこで吉本は「無形の価値」を含んだ価値論というものを考えたわけです。
「母型論」的な吉本の考察というものは、あらゆる事象を普遍的な問題として考察していく道筋を開拓していると思います。そのひとつの例として今回の事件を取り上げてみました。あらゆる特定の事象を普遍的な問題につなげることができる、ということは、あらゆる特定の「大衆」も普遍的な思想の場所に置いて考えることができるということだと思います。それが「大衆」が社会の中心である世界に向けての、吉本の思想的な準備だったんだとわたしは思います。