たれが おまへに 来い と言ふ た おとよ が 死んで しげる が 生れ 木の実が からから(冬)

これは吉本が東京府立化学工業学校に在学中に「和楽路」という学内の文芸同人誌のようなものに書いた詩です。卒業記念号に載っていたそうですから17歳くらいの作品でしょう。これが詩の全文という短い詩です。特徴は韻文だということです。韻をふんで書かれた詩です。1941年(昭和16年)ごろの作品ですから戦時中です。この詩のなかの「おまへ」というのは何を指しているのでしょうか。題が「冬」ですからおまへというのは冬のことかとも考えます。誰かが死んで誰かが生まれた。木の実がからからと鳴っている冬の光景。これは生と死、季節の繰り返しという自然のいとなみをうたっている詩だと思います。おまへというのは冬であってもいいし、おとよやしげるであってもいいし、自分自身であってもいいあいまいさをもって表現されていると受け取ってもいいんだと思います。大きなところで自然というものが運命を決めているという感覚の表現だとわたしは思います。
この詩を韻律を保って書くことで自然というものが感覚的に浮き上がってくるのだと思います。当時の吉本の周囲にある詩歌というのは大部分が韻律のある詩だったろうと思います。詩が韻律を離れ、散文詩として本格的に書かれ始めるのは戦後の「荒地派」の詩人たちからなんだと思います。そして吉本は自分が影響を受けてきた戦争中の詩人たちの詩に対して、戦争責任論を戦後に書きました。それがいわば吉本のプロの批評家としてのデビュー期にあたる仕事です。その追求のなかで韻律とは何かという問題意識を立てています。自然と融合しているアジア的な自意識というものがあって、その自然とまみれている心性の表現が韻律なんだということだと思います。戦後になってようやく本格的に西欧の詩の影響を受けて、社会や歴史を考えた思想を盛り込もうとすると韻律は逆に拘束として意識されます。自然に対して対象的になる、対立的になる、そしてそのことで自然から離脱して自意識をどこまでも拡大していこうという西欧的な意識のありかたに日本の文学者が入りかけたということだと思います。
ここらで「母型論」の解説に移らせていただきます。「起源論」「脱音現象論」「原了解論」という「母型論」の最後の章の解説になります。「起源論」は乳幼児が言葉を獲得していく過程を原始未開の人類が言語を獲得していく過程と対応させて考察を始めます。まずは「人類」の問題として、つまり世界普遍的に考えられる言語の獲得の問題が考えられ、そこを土台にして日本の言語の獲得期の問題に入っていくわけです。そして日本とか日本人というのは何か、という問題を言葉の面から掘り下げていくことになります。重要なのは、吉本にとってはこうした歴史の起源への追求が、未来の社会の見通しという問題につながっているということです。ですから吉本は高度資本主義あるいは消費資本主義という現在の社会のさらに将来の思想的な展望という追求と、日本の歴史の起源へ遡行するという追求は同時に行われていく問題となります。
「脱音現象論」と「原了解論」に書かれていることは、「起源論」の問題意識の継続として日本語における起源の問題をさらに詳細に追及しているという意味をもっています。
吉本がまず人類共通の問題として考えた言語の獲得について重要な点を解説してみたいと思います。歴史の起源に遡る方法として乳幼児の内面を考察します。すると言語を獲得する以前の乳幼児、また胎児の段階のこころをどう考えるかということになります。以前に解説した「大洋論」に戻りますが、吉本は言語を獲得する以前の胎児・乳幼児の内面を「大洋」という概念であらわしています。「大洋」は大きな海のイメージですが、赤ちゃんのこころのなかを大きな海のイメージであらわしているわけです。この「大洋」は表層の波のうねりや深層の海の動きがあり、また大洋の上にひろがる天空があるというイメージです。「大洋」をつくっているのは三木成夫の研究を土台にしてるわけですが、内臓系(その中心は心臓)からくる心のゆらぎの感受性のすべてと、体壁系の感覚器官の感応のすべてです。その内臓からくるこころの動きと、感覚器官からくる感覚が、大洋のたて波とよこ波をつくって織物のようになっているというイメージになります。この「大洋」の世界にはまだ「ことば」はありませんが、そのかわりに胎児・乳幼児が身体で感じるすべてがこめられています。そしてこの「大洋」におおう「天空」は「母」なんだと思います。「母」は胎児・乳幼児にとって全世界、全宇宙にあたるものだからです。そして「天空」から降りそそいでくるものが「大洋」をざわめかします。それは表層の波のゆらぎにとどまることもあるし、深層の海の動きにまでとどくこともあります。こういうイメージをあえて描くということは、言葉以前の赤ん坊のこころの考え方として良い方法だと思います。言葉のない世界をイメージとしてとらえる方法です。
この「大洋」はやがて失われます。しかし消失するのではなく言葉によってできる意識の世界にとってかわられるわけです。そして意識の世界の奥に「大洋」の世界はしずみこみます。だから「大洋」はいわゆる無意識の世界であり、いわゆる無意識の世界が内面のすべてであった胎児・乳幼児期の内面を指しています。なぜ無意識と呼ばず「大洋」という言葉を造語したかといえば、それはフロイトの概念である「無意識」よりももっとさかのぼる「無意識の奥の無意識」というものを、それは胎児期の内面にさかのぼるということですが、それを含めたいというモチーフが吉本にあるからです。
この「大洋」の世界はその持ち主である胎児や赤ん坊の活動によってゆれうごいています。耳が聞き、舌が羊水やおっぱいの味を感じ、手足がおっぱいをさわったり自分のゆびをしゃぶったりする、そういう体壁系の感覚と、「母」のこころの動きが内コミュニケーションとしてそそぎこまれるものが内臓系の感覚として胎児・乳幼児の内臓に届いていきます。「母」がどう接するか、あるいはどんな隠された感情をもっているかも内コミュニケーションによって「子」に刷り込まれていきます。ここに問題があれば将来の精神病の根底をなすことになります。
さてこの「大洋」の世界に言語はどのようにやってくるか。それは「天空」からの「声」としてやってくるわけです。それが赤ん坊が言葉を話す前の喃語(あわわ言葉)です。母親が赤ちゃんに「あばば」とか「あっぷっぷー」とか語りかける。まだ言葉は分からないからそういう音なら反応するかと思うからです。そのとき赤ちゃんの内面である「大洋」の世界は、その声である音を耳で感覚するとともに、母親の内面を内コミュニケーションによって内臓系で受け取ります。それは赤ちゃんがふしぎにも母親ときもちが通じるということです。おかあさんと同じように「あわわ言葉」を赤ちゃんが返してきたりする。つぎにはこの「あわわ言葉」がどのように言葉になっていくのかということになります。またその考察を土台にして、人類がいかにして言葉を獲得するかの考察に展開したいわけです。さらにはその起源論を未来の見通しとして活用したいわけです。しかし急いでもどうにもならないので、ゆっくりいきましょう。
「あわわ言葉」が言葉に移っていくときに吉本が考えているポイントをあげていきたいと思います。「あわわ言葉」が言葉に移っていくことは、この言葉以前の言葉がしだいに分節化されることを意味しています。この分節化を推し進める要因はいろいろ考えられますが、大きな要因として「リズム」つまり反復ということがあるのだと考えます。「リズム」は体内にも体外の自然のなかにもあります。体内のリズムは内臓系の心音や呼吸のようなリズムもありますし、体壁系の感覚もまた睡眠や覚醒のようなリズムをもっています。また体外の自然には日のリズムや季節のリズムや、波の音、風の音、雨の音などの自然音のリズムがあります。この「リズム」を体内と体外に感じることが「大洋」の世界が言葉の分節化へすすむ要因のひとつと吉本は考えています。
次に言葉には母音と子音というものがあるわけですが、「あわわ言葉」はどのようにこの母音と子音の秩序を作っていくかという問題になります。ローマン・ヤコブソンという言語学者の説を下敷きにして、吉本はこの問題を考察しています。乳幼児の「あわわ言葉」はまだ母音とも子音ともつかぬ言葉の状態で、母音でも子音でもありえる中間の音声といえると吉本は述べています。ヤコブソンは乳幼児は「あわわ言葉」の時期に、ありとあらゆる多様な音をだすと述べています。
このことを赤ん坊のからだとして考えると、のど、口、鼻へ通じる鼻孔という息の通路があるわけですが、こうしたものをふくらませたりしぼめたり閉じたりすることと、そこを通す息の強さの強弱などによってありとあらゆる音声を出しているということになるでしょう。赤ちゃんを見ているとたしかに口やからだをうごめかして(あむ)とか(ぱっぷ)とか意味のまだないいろんな音声を発しています。そうこうしているうちに「あわわ言葉」のなかで思いっきり口を開けた状態での(あ〜)と唇をぱたんと閉ざした唇の音(ぱむ!みたいな)のいわば両端の音を作れるようになることで次のステップへすすむそうです。この口腔全体を閉じる唇閉鎖音が、母音と結合すると、音節の萌芽が作られ、分節化された言葉の方へ開かれると吉本は述べている。唇を閉じる音が出ることが音声の分節化の始まりということになります。
ここからしだいに「あわわ言葉」は言語に移っていくわけですが、ヤコブソンが指摘していることは最大限にのど、くち、鼻孔を広げた音声である広母音(a)から母音の体系が作られます。「あー」から別の母音へ移っていくということです。また口腔内を閉じ、口腔全面だけをひらいた閉鎖音から、子音の体系がつくられるとヤコブソンは述べています。くちびるだけを開く音というとたとえば(ぷっ)です。(p)。これが最初の子音としてあらわれます。
ヤコブソンは口腔音と鼻音がつまりp音と㎡音がはっきりとしたちがいとしてあらわれると述べています。つぎにあらわれるのは唇音と歯音のちがいだと述べています。口腔音と鼻音、唇音と歯音の対立的差異が最小限の子音体系を作るとヤコブソンは述べます。このふたつの子音的対立につづいて、いちばん最初の母音的対立があらわれるそうです。それは広母音(a)と狭母音(i)の対立です。そして乳幼児の母音体系は、狭母音が硬口蓋母音と軟口蓋母音とに分化する(たとえば、pipi、pupu)過程、あるいは狭母音と中くらいの開きの第三の母音と対立的な過程(たとえばpipi、pepe)をもつようになるということです。硬口蓋軟口蓋というのは口腔のなかの上の部分で歯列に近いほうが硬口蓋、奥ののどに近いほうが軟口蓋です。そしてこのどちらの過程をとっても三母音の体系が生み出されることになり、これはどんな民族語にもあてはまる最小限の母音体系ということになるとヤコブソンは述べているわけです。
つまりあわわ言葉の時期では赤ん坊はありとあらゆる音声を発する。それを次第に赤ん坊が削り落とすわけです。そして最初の母音と子音を生み出していく。それが三母音の体系で、それはどんな民族語にもあてはまる世界共通の母音体系だということです。つぎに問題になるのは、こうした世界共通の言語の発生からどうして各民族で異なる言語が生じるかという問題になります。
そしてここまでさかのぼることが歴史の起源へ向かってどのような新しい考察を生み出せるかということが問題です。それはまた次回で。暑いですね。